法話

今月のご法話

こんにちは 副住です。
今日はご法話を・・・「スモークガラスの向こうから」
最近の車の後部座席の窓ガラスには、黒色のガラスや鏡のようなガラスが付けられています。いわゆるスモークガラスと言われる物です。スモークガラスとは、車内に載っている人のプライバシーを保護する為に創られた特殊ガラスの事で、そのガラスが付いている車に載っていれば、車外から車内の様子が見られることはありません。しかもそれでいて、車内からは車外の様子がしっかり見えるという優れ物です。プライバシーが重んじられる近年、このガラスを装備する車が増えているのです。
私の車にもこのスモークガラスが付いています。その車を運転して、ある時法事のお参りで都内に出向きました。少し早く門徒さんのお宅に着いてしまった為、近くの百円パーキングに車を駐車し、時間を調節する為、車内で待機する事にしました。エンジンを切り、後部座席に乗り換え、足を伸ばし、くつろいでおりました。しばらくすると、下校途中の小学生の男の子が駐車場に入って来て、私の車の奥に行き、キョロキョロとしていました。すると次の瞬間、壁に向かって用を足し始めたのです。
・・・我慢出来なかったのでしょう。思わず、笑ってしまいました。少年は、誰にも見られていないと思ったに違いありません。駐車中の車内のスモークガラスの奥に僧侶の私がいる事など、思ってもみなかった事でしょう。もし私が車内にいると気付いていたら、きっとそこで用は足さなかったでしょう。少年は“誰にも見られていない!”との自己の見解によって、用を足したのです。しかし、私は少年を見ていました。
 私達はついつい自己の狭い見識を頼りながら、またその見識にとらわれながら自分勝手に生きています。それはまるで少年が、見られている事実を自己(少年)の勝手な見解によってねじ曲げてしまっている様なものです。
 阿弥陀仏は、このような私達を憐れに思ってくださるのだそうです。また同時に愛おしく思ってくださるのだそうです。その結果このような生き方をしている私を放っておけず、“娑婆世界での縁が尽きたら、次には狭い見識にとらわれない世界へと必ず連れて行く”と誓っておられます。狭い見識を超える世界、それが仏の世界ということです。阿弥陀仏は誓うだけでなく、狭い見識にとらわれている私を仏とするために、現在私にはたらいてくださっているのです。どのようにはたらいているのかといえば、仏様の方向を向かないで生きている私を、仏様の方向に振り向けるようにはたらいてくださっているのです。実際にこのブログを読んでおられる方がいたならば、それは既に阿弥陀仏のはたらきとであっていることの証明でもありましょう。(阿弥陀仏のご法話を読んでいるのですから、阿弥陀仏の方向に向いているということでしょう)
 もし阿弥陀仏のはたらきをそのように受け止められないとすれば、それこそが自己の狭き見識によって害され、受け入れ難い状態にあるということです。しかしながら、私達が受け入れようが、受け入れまいが、阿弥陀仏は私達にはたらき続けて下さいます。スモークガラスの向こう側から。
私達はもっと、私達からは見えないスモークガラスの向こうから、常に見られているという事実(常にはたらいてくださっているという事実)を、あるがままに受け取らせていただく必要がありそうです。そこにこそお念仏の日暮があるのです。