日記

東日本大震災3年

おはようございます。副住です。
今日は東日本大震災から3年がたつ日です。
被災された多くの皆様の深い悲しみや、ご苦労を拝察いたします。
TVでは被災地の現況や諸問題などが語られていました。
報道のされ方や立場によって、見えてくるものが違います。
TVでは一部分しか視点があてられず、見ている視聴者は、あたかもそれが全てかのような錯覚を起こしやすい環境もあります。
しかし、現地では計り知れないような沢山の問題があると思います。
今なお苦しまれている方々のストレスにどう対処していけばいいのか、私たち一人一人も考えていくべき問題ではないかと思っています。
人間は置かれている状況が人によって違うわけで、当然 それぞれのあり方によって心のあり方も変わります。
時間が経過すればするほど、それぞれの方の受け止め方も変わってきてしまうことでしょう。
斯く言う私も、これまでの普段の生活の中で あの震災のことを忘れている日もありました。
これが人間という者の心のあり方なのだと実感してしまいます。
つまり環境によって、心が影響をうけ、感じることが変わってきてしまうということです。
この3年という時間は、あの深い悲しみを負った日の傷ついた心をある意味では耕し、ある意味では風化させてしまっています。
今日、私たちは3・11という日を迎えました。私はあの日のことを今、痛烈に思い出しています。
そして、あの日心に負った治らない傷を、なんとも言えない心の傷を、掘り返しています。
やはりとても辛いです。
私は今、仏教と出会えてよかったと思ってます。
それは、とても辛い心の傷を、本当は風化させてしまいたい心の傷を掘り返し、受け止めることができるから。
私は震災の日、「こんな事が起こり得るのか」ということを体験しました。
死ということの近さを教えられました。
津波の映像を生で見たときは「嫌だ」「逃げろ」「そこは危ない」「何とかして」
とにかく「みんな頑張ってくれ」と、まるで自分の家族のことのように(それに近い感覚で)思っている時もありました。
3・11に負った傷は、時間とともに見えないところにしまわれていました。
今日、その傷を掘り返してみると、死に照らされた今の生の尊さを感じています。
さらに、私と他人という枠組みをつくって、私達さえよければというような心に犯されて日々を過ごす私に
私達だけと心で枠組みをつくって考えてしまう自分の姿を反省させられました。
今、あの経験から照らしだされる自分の姿を反省させられてます。
心の傷を風化させないで、それを受け止めることで、今後の人生の指南とすることも大切なことです。
ただ、私たちはどうしても忘れていく存在。だからこそ、それを思い出させる切欠であるお仏壇があるのでしょう。
西照寺には本堂があります。仏様をお参りすることで、忘れそうになる大切なことを忘れないようにしていきたいと思います。