日記

首都圏では直葬が3割? 問題の散骨などを積極的に放じるマスメディアに意見

こんにちは 副住です。
来週の日曜日に連続研修会の講師を依頼され、ずっと準備作業の毎日です。
しかし、諸用が多いため、なかなかはかどりません。
とはいっても、本を数冊読むことができました。
テーマは「ご葬儀とご法事」について。
ご葬儀とご法事の意義や歴史などについてお話をさせていただきます。
現在、築地本願寺にある総合研究所というところでお世話になっているのですが、
そこでも葬儀について調べる役割を与えてもらっているのです。
そこで、今回のご依頼をいただいたのです。
しかし、葬儀の現況や意義、あるいは歴史などを色々と調べてみると、
葬儀の役割の重さ、あるいは法事の大切さを痛感します。
現在は儀式を介さない(亡くなったら、直接火葬場にいくという)直葬などといわれる葬送がメディアを賑わせておりますが、
(直葬の定義はありませんが、昔もみられた事象です)
葬儀の意義を知ればしるほど、直葬は、人として、いいのだろうか?とさえ思ってしまいます。
葬儀は、亡き方が往かれた世界(浄土)を、儀式を通じて皆が共有し、亡き方と遺族の新しい関係論が構築される場なのです。
亡き方が仏様となられたことを儀礼をもって皆が共有していく場なのです。ここに宗教的意義があります。
共有できるから、亡き方と向き合う場が統一されてくるし、そこに宗教的な意義や規則・儀礼が成立するのです。
しかし、直葬は、この儀式を行わないので、亡き方との関係論が曖昧となってしまいます。個々人がバラバラ。
死んだらどうなるのだろうか?儀式を通じないことで、不確かなものとなってしまいます。亡き方と関係が結べなくなります。
不確かだからこそ、「死んだら何も無くなる」という人もでてくるし、「自然にかえる」という人もでてくる。皆が自身の価値観の中で好き勝手語りだす。
結局、そのような価値観の中には、皆が共有できる世界観が欠落するので、故人のゆかれた世界が曖昧なものとなってしまう。
伝統宗教とは、皆が歴史をかけて紡いできた共有の世界観が培われているのです。これは、個人的世界を超えている。
直葬などの果ては、故人を思い出化していく、記憶の中に留めておく、という方向にしか進めないでしょう。
故人がゆかれた世界が人によって認識が異なると、共有できなくなります。
故人の死後が共有できないのであれば、生前の記憶を留めていく方向にしか故人を偲ぼうとするベクトルは回らなくなると思います。
結果、埋葬形態も多様化してきています。散骨や樹木葬、あるいは宇宙葬など。
これらは、故人を思い出化することに重きを置いた結果、派生してきた形態かもしれません。
(もちろん、一概には言えないでしょう。私が言いたいのは一つの見方ということです)
マスメディアは、直葬や散骨などを著しく取り上げ、人々を導こうとするかのごとくです。
穿った見方をすれば、ある意味情報操作を行っているとも考えられます。
そう考えたら、その背景には「誰か」がいるのかもしれません。つまり、直葬を拡めることで、得をする「誰か」がいるのかもしれません。
もちろん、華美化した葬儀やお墓に対する反発も頷けますが、ただし、葬儀やお墓は大切なものであるからこそ、直葬や散骨ばかりを取り上げるマスメディアの視点が非常に
浅はかに思えてしまいます。放じるべきは、より深い意義であったり、大切な内容ではないかと思うのですが・・・
因みに、葬儀を身内(親族)だけで行うことを、通称「家族葬」(昔でいうところの密葬と同じ)と呼んでいますが、こちらは
私的には大いに賛同してい事象です。ただ、現在の家族葬というものを、もっと宗教的な場にしないといけないと思います。
つらつらと、難しいことばかりを書きましたが、読みづらくてすみません。
結局のところ、言いたいことは、宗教性を発揮せよ!とのことです。

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