日記

「なぜ人を殺してはいけないのか?」の疑問には誰も答えられない 仏教からの一つの答え

こんばんは 副住です。
今日は更新が遅くなってしまいました。
佐世保の事件も手伝ってでしょうか、こんな記事を見つけました。
記事
なぜ人を殺してはいけないのか?
これは、あまりにも当たり前なこととして思われているのですが、意外に答えが難しい問題です。
以前、五木寛之さんがTVでお話されていたことを思い出します。
それは、五木寛之さんがアメリカに行った(宗教に関してのTV取材を通じてのことです)時、お話されていた内容です。
それは、ある少年が、「なぜ人を殺してはいけないのですか?」と宗教者(仏教者だったか?)に質問をしたのだそうです。
すると、宗教者は明確な答えをだせなかったと話しておられました。
なるほど。これは確かに大変な問題ですね。
人を殺してはいけないの?と考える時点で、正常ではないと私たちは考えてしまいますが、
しかし、そのように考える人にとって、明確な理由が説明できない私たちのあり方は、もっと疑問にうつるかもしれませんね。
さて、仏教を学んだ私的には、以下のように考えています。この話はよく子供たちにしています。
仏教の教祖であるお釈迦様は、私たちのレベルにあわせて教えを説いてくれました。
その教えの一つには、お釈迦様の誕生時の説話も含まれていると思います。
お釈迦様は、この地上に生まれた時、すぐに立ち上がり、
東西南北それぞれの方向に七歩づつ歩き、「天上天下唯我独尊」と仰ったと伝えられています。
その意味ですが、
「お釈迦様はこの地に身をもって生まれてきて思われたことがありました。東西南北、それから天上天下、つまり、あらゆる方角を見回したけれど、
私ほど大切なものは見当たらない(唯我独尊)」ということです。(この解釈には、他にも数個ありますが)
さらにこの背後には隠れた意味があって、私がそう(上記のように)思うのだから、他の人も私と同じように考えているだろう(つまり、自分が一番大切だと思っている)。
だからこそ、他の人と接する時は、自分と接するようにしていきましょう。
(つまり、自分がして欲しいことを他の人にもしていこう。自分がして欲しくないことは、他の人にもしないようにしよう。ということです)
これは、私たちがつい自分を優先してしまう生き物ということを、お釈迦様は見抜いておられ、だからこそ、そのレベルに合わせて説いてくれた教えであると理解します。
そう考えると、「なぜ人を殺してはいけないのか?」との疑問にも答えがでてくるのではないでしょうか?
自分がして欲しくないことを、他の人にしないようにしよう!ということです。
「なぜ人を殺してはいけないのか?」と思っている人は、自分が殺されたいのでしょうか?
けっして そんなことはないと思います。自分は殺されたくないけれど、人を殺してみたい!・・・こんな発想は、自分勝手極まりないあり方です。
この世界は自分一人で成り立っているのではありません。様々な物事が関わり合って私も成り立っているのです。
だからこそ、あらゆるものに敬意をはらう必要がありますし、だからこそ、自分勝手な行動は謹んでいかねばなりません。
そこのところが最近余計に見えなくなってきてしまったのでしょう。
個人を重んじ、尊重していく風土です。ある意味では楽ですが、ある意味では大間違いです。
「なぜ人を殺してはいけないのか?」難しい問題にみえますが、そんなことにも答えられないのは寂しすぎます。
こんな質問がでてくること事態が、自分勝手な世界となっている現状社会を確認させてくれます。
もう少し、この社会を整えていく必要があるように思います。