日記

お彼岸 秋分の日 意味

おはようございます。副住です。
今日は秋分の日。お彼岸のお中日です。
毎年、秋分の日は休日ですね。国民の休日。
内閣府のHPでは国民の休日について定義が書かれてあります。
内閣府HP
秋分の日は「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」とあります。
本来は毎日せねばならない大切なことですが、私たちの心は揺れ動き、ついつい大切なことを忘れがちにしてしまいます。
ですから、記念日が必要なのでしょうね。
せめて、一年に一回くらいは(一回では少なすぎると思うけど)・・・定義に沿った行動を心がけていきましょう。
というのが、日本人としてのあり方であると、国として休日を定めたのでしょうね。
私も「敬う」ということ、また「偲ぶ」ということは日本人として大切にしていくべき心のあり方だろうと強く思います。
自分よりも大きなはたらきに気づき、「敬う」ことは、「謙虚さ」を教えてくれることとなります。
自分が一番なのだ!という心は「謙虚さ」とは反対の「傲慢さ」を生み出します。
「傲慢」な生き方は、きっと苦労が多いと思います。だって、自分の思い通りにしたいという心が強くなるし、だけど現実は思い通りにはならないし。
しかし「謙虚」な生き方は、他を尊重する生き方へとつながります。他を尊重する生き方であれば、多少の我慢はありますが、根本的に思い通りにしたいという心が強くなることはありません。
(本当の謙虚さであればですが。偽物の形だけの謙虚さだと、そうはなりません。きっと我慢ばかりしているので、苦しみは深くなるでしょう)
また「偲ぶ」ということも大切です。亡くなった人に思いを馳せること。これは自分がお世話になったと振り返ることができる心があるからこその心だと思います。
換言すれば、自分一人で生きてきたわけではない。亡き方のお陰様で、今の私が成り立っているのだな。と思える心があるからだと思います。
または、それだけ亡き方を自分の中で認められているからこそ、でてくる心ではないのかな思います。
つまり、亡き方を認めるということは、ある意味「敬う」ことにも通じてくるのではないかと思います。
(今は先祖や亡くなった人という定義に沿って表現しましたが、これは決して先祖や亡くなった人だけに該当するものではないと思います)
「敬う」ことは相手を大切であると認めることでもあります。相手を大切だと認められれば、相手はこちらを認めてくれるのではないか思います。
争いは相手を認めないことから始まります。
今日のお彼岸という日は、「敬う」心を確認し、平和な1日にしていかなくてはなりません。
(お彼岸だけ平和にしていればいいというわけではないですよ。本当は毎日「敬う」心を大切にしていくべきだと思います)