日記

徳島市の僧侶の事件  

こんにちは 副住です。
色々なことがありますね。昨日は家族のことで、病院にいったりしていたので、更新ができませんでした。
また、昨日・今日と連日のTVニュースに驚いています。
お寺のブログで取り上げるものどうなのか!?と正直迷いましたが。
しかし、このブログはお寺のことを知ってもらうため、あるいはお寺に属す僧侶の人間性などを知ってもらうために続けているものです。
ですから、都合の悪いことを敢えて避けるのは、何だか卑怯な気もしたので、敢えて触れてみます。
もちろん、私個人〈一僧侶〉の意見として綴ります。
今朝、TVを見ていると、「徳島市のお寺に属す僧侶が女性を殺めた」という報道がなされていました。
その後、顔写真がでてきました。僧侶の格好をした若い男性でした。
髪の毛が生えているので、私は「え!?」と思いました。また首から下げている袈裟〈輪袈裟といいます〉には、見たことがある紋が見えたので、「まさか!?」と思いました。
その後、僧侶が属するお寺が映りました。お寺の門が撮され、右側の門にはお寺の名前が、そして左側の門には、そのお寺が属す宗派名がありました。
残念ながら、同じ宗派だったのです。
この宗派は、全国にお寺が1万以上、僧侶は3万人以上いるとされています。沢山あるのです。
ですから、同じ宗派だからといっても、知らない人ばかりです。
今回の容疑者を、私は知りません。
ですが、同じ宗派ですから、当然同じ仲間ということです。
その僧侶が女性を殺め、警察の事情聴取に応じ、犯罪を認めていると報じられたのです。
正直 「嘘だろ」と思った瞬間でした。
私も同宗派の僧侶として、今回の事件が事実であるならば、被害者の方や皆様にお詫びを申さねばなりません。
誠に申し訳ありませんでした。ただし、お詫びをすればいいというものでもありません。
被害者の女性の命は絶たれてしまったのですから。
僧侶は仏教という教えをたよりとし、信仰の中に生きる人だと私は思っています。その信仰の中から、その人その人なりの規律や生き様が切り開かれてくるものだと思います。ですから、よく言えば「芯のある人生」が歩める人と見えるでしょうし、悪く言えば「頑固」にうつる場合もあるでしょう。それらの違いは、僧侶自身の人間性が関係していると思います。ですから各僧侶の周りの方がどう感じるかは、僧侶の人間性による部分が大きいのかと思います。ただし共通事項としては、信仰の中から芽生える「何にも優先され得る、ゆずれない確かなこと」を持っているということだと私は思います。もちろん、それらは感じ方の違いはあれ、各僧侶共通しているものです。これこそが、僧侶の行動指針となり得、すべての判断基準となり得るものです。これを大切に考え生きているから、「芯のある人生」にもなり得るし、あるいは「頑固」とうつる可能性もあるのです。
 「何にも優先され得る、ゆずれない確かなこと」と聞けば、ある種怖いような気もしますが、私が感じているところによると、まったく怖いようなものではなく、むしろとっても大切なもの。有難いものです。もっと言えば「人生で巡り会えてよかった」と思えるもので、巡り会えたことで、自分の人生が充実した!と思えるものです。〈これらについての詳細は、日を改めましょう〉
〈もちろん、僧侶は信仰だけでは生きられません。この世界の規律も守りながら、世俗に通じた生活も送ります〉
そのような信仰の中から、「いのちの尊さ」や「死んで往く世界」など沢山の気づきが生まれ、人生を有り難くいただくことができる。これが私の感じる僧侶としての道です。
 ですから、今回の事件はとても悲しいです。ある種の「規律」や「いのちの尊さ」などを説くことができる僧侶〈それを感じることができる人だからこそ〉が、反対の行動とも受け取れる事件を起こしてしまったのですから。〈本当にこの事件を起こさざるを得なかったのか? こればかりはご本人にしかわからない部分なので、私がどうこう言える立場にはありませんが〉
 ただし、より深いレベルで、私という人間は、縁があればどのような行動を起こすかわからない心をもった人間であるということも一方では事実だと思います。親鸞聖人は、そのことを指摘されます。
私だって、今後どのようになるかはわかりませんし、絶対悪いことはしない!などと言い切れません。それだけ縁によって揺れ動く可能性がある不確かな心をもっているのです。その不確かな心に芯を持たせてくれるものこそ、信仰だったりするのだろうと感じます。
もちろん、心に芯が入ったからといっても、芯を中心に揺れ動く心はあります。芯を持たない心の揺れ幅よりも、小さくなることは確かだと思ったりもします。
ですから、今回の僧侶が起こしたとされる事件は、「嘘だろ!?」と感じているのです。
やはりあってはならないと思ってしまうのです。
同時に、あってはならないことが起こるのも事実であり、これが不確かなこの世界の現実なのでしょう。
その不確かな現実に生きる者だからこそ、確かなものが大切なのです。
仏様は確かなものです。お浄土も確かなものなのです。〈ものといっても存在論を言っているわけではありませんが〉
いずれにしろ、今回の事件、あってはならないことでありました。
浄土真宗本願寺派の僧侶として、深くお詫び申し上げます。