日記

仏教を学んで得られること。 僧侶の行き方。 普通の人とお坊さんの違い

おはようございます。副住です。
連日予定が立て込んでいて、なかなか私的な用事に取り掛かることができません。
でも、こうやって毎日予定が埋まってしまうのも、有難いものです。
それを忘れて、不満ばかり言っていると、人から頼まれなくなります。
毎日が暇となって、必要とされている実感がなくなったら、とても寂しいでしょうね。
その時に思うことは、どうして僕に頼んでくれないのだろう?などと考え始めるのです。
人間は無いものネダリを得意とするので、日々の生活に変化を求めてしまいがちですが、
今あるものの貴重さを振り返ることができる目線があると、だいぶ違うものだと思います。
もちろん、人間ですから不満はでてきます。(例えば、毎日予定が続くと、いずれ疲弊してきて、心に余裕がなくなります。すると「休みはいつだ?」とか不満が顔をだしはじめます)
私も不満をこのブログなどで綴っています。
不満を抱きながらも、ある時に「でも毎日果たすべきことがあるって、有難いことだよな」と内省する時間を持ちます。
すると、不満が顔をださなくなります。
どう説明すればいいのかわかりませんが、不満はなくなるわけではないのですが、不満に目が向かなくなるような気がします。
不満に目が向かなくなって、依頼の有り難さに目が向くので、「しっかりとお役目を果たしたい」と頑張れるようになります。
(ただし、人間ですから限界はあります。疲れていれば、疲れている中で可能な限りを頑張るということです。)
私は僧侶となって感じていることは、物事をみる際「対極」からみれる視点が備わったと思います。
噛み砕くならば、一方の見方としては人間的な見方をします(←これは皆が普通に行っている見方です)
ただし、この見方で物事をみていくと、ある時、行き詰まる場合がでてきます。
(例えば、今の流れでいうと、毎日が忙しくなって、心に余裕がなくなり、不満が顔を出し始め、仕事そのものに不満を感じていく。あるいは仕事をこなせない自分を責めてしまうなど)
行き詰まったら、悪循環が始まってしまいます。(どこかで心を好循環に切り替えられる契機が必要となるのですが、この状態になると、その契機がわからなくなります)
この悪循環を切り替える契機となるものが、もう一方の見方なのです。
その見方こそ、「自分基準ではない見方」。
皆が普通に行っている見方は、「自分基準の見方」なのです。皆、自分をもってますよね。その自分が物事をどう把握しているか・・・これが自分基準の見方ということ。
この見方でいくと、自分の思い通りにいかない場面が続いたりすると、行き詰ってしまうのです。
だからこそ、「自分基準」から離れる必要がでてきます。
つまり、「自分の都合」で物事をみない。「本来的な物事のあり方をみる」ということです。
難しいですが、仏教ではこのことを「智慧の眼」(仏様の智慧)などと言ったりします。
私は行き詰った時、この「仏様の智慧」(智慧の眼)をかりてきます。(どうやってかりてくるかは、言えません。内緒とかではなくて、これは経験なので、言葉で説明できないのです)
「仏様の智慧」をかりてきて、「自分基準」から離れて、物事の本来的なあり方をみるのです。
そうすると、今まで自分基準で「不満」に見えていた事柄が、今度は「有難い」「貴重」「尊い」などと感じられるようになるのです。不思議なことですね。
そうなったら、しめたもの。悪循環から好循環へと変化します。
(これはもちろん、心の状態のことを言っています。人間ですから体的な問題。疲れが吹っ飛ぶ などにはなりません。(心がリフレッシュできれば、疲れも少しだけとれるでしょうが))
私は僧侶となって仏教を学び、おそらく普通の人が持ち得ない特技を身につけられたと思います。
僧侶と僧侶以外の人と、大きな違いとしてあげられる1つだと思います。
仏教を学ぶ(頭での理解だけではなく、心での理解ということ)と、このようなことができるようになります。
仏教を学ばなければ、このような見方はできないだろうなと思います。