日記

本物とは何かⅢ

こんにちは 副住です。
今日から連載に戻ります。
数年前、私はある方と出会いました。
その方は、日本刀の愛好家でもあり、80歳を超える
ご高齢の方。
日本刀は、定期的に磨いていないと錆びてしまうものです。
日本刀の素晴らしさは、刃文や地肌などにあります。
ですから、錆びてしまうのはダメなのです。
万一錆びてしまったら、研がないといけません。
でも研ぐと、その分削れてしまうわけですから、良くはない。
ですから、錆びないように手入れが大切となるのです。
その方は、長年日本刀を大事に管理をしてこられました。
古い日本刀ですから、きっと、その方が保有する以前から
先人の方が大事に磨いてこられたのでしょう。
それを引き継ぐ上でも、責任感が増すわけです。
その方も、その責任感を含め、大事に日本刀を手入れされて
こられたのです。
毎回、日本刀と対峙して、いい加減な気持ちで手入れをした
ことがないわけです。真摯に向き合って、手入れもしてきた
とのことです。ある時、集中して刀を磨いていた時だそうです。
急に、手が勝手に刀を磨いていく境地になったのだそうです。
つまり、自分の意思とは関係なく、刀が磨いて欲しいところへ
手が勝手にポンポンポンと動いて磨いていく境地と出会ったそう
です。驚いたそうです。その境地は、刀と一体化した世界との
ことです。
私はその話を聞いて、「私を超えた世界」との出会いだ!と興奮
し、共感したのです。
すぐさま、意気投合してしまいました。
やっぱり、私を超える世界はあるのだと思わされました。
その頃から、宗教だけではなく、芸術の世界でも「私を超え
る世界」は色濃く見えるのではないだろうか!?
との理解が、私の中でできあがりました。
本当に優れた芸術は、きっと「私を超えた世界」との出会いを
作品にしたものだと思うからです。もっというと、その出会いを
経験し、そこからくる感性を作品に投影できたものこそが、
「本物」なのだろうと思うようになりました。
この「私を超えた世界」は、もはや理論では語りきれません。
むしろ、そのような境地は、感性でしか受け止められないの
だろうと思うのです。