おはようございます。副住です。
自己中心性の心は、ある意味、孤立していこうとする方向へと、
私を動かしていきます。
不思議なことに、全体的な繋がりに目を向ける方向には展開しないのです。
むしろ、孤立を求めていく方向へと展開していきます。
究極的には、自分さえよければ!という方向へと進んでいきます。
自分優先主義は、最近の傾向ですね。
現在のアメリカ大統領は、よく「アメリカンファースト」と
主張していますが、あれこそ、煩悩のままの姿。煩悩に正直な姿。
ただ、悪いところは、煩悩の欠点を知らないところにあります。
もっと言うと、煩悩の誤りに気づこうともできないところにあるのです。
それはつまり、情けない状況ということです。
ただし、情けない状況にいることさえ気づけない状態なのです。
これは煩悩がそうさせているのであって、
そもそも人間の特徴なのかもしれません。
(そういう意味では人間は生悪説かもしれませんね)
例えるならば、鏡を見たことのない人が、汚れた顔をしていて、
平然と多くの人の前で目立とうとする。
他の人からは「汚い顔しているな!」と思われているのに、
自分では気づけない。そりゃそうです。鏡を見たことがないのだから、
自分の顔の汚れに気づけない。また、気づこうともできないのです。
これと一緒。
だけど、他人から指摘されたり、鏡を見せられたりしたら、
気づく場合もあります。
気づいたら、きっと汚れを落とそうとするでしょうね。
汚れていた顔の自分が、恥ずかしいと思えるでしょう。
これと同じで、煩悩の愚かさは、煩悩の心を照らしてくれる鏡
で確認しないと気づけないのです。
その心を照らしてくれる鏡こそが、仏教という教えなのです。
仏教を学ぶ(落とし込む)とは、自分の持っている煩悩の心の
愚かさなどを、自分で確認することとなるのです。
人から言われるのではなく、自分で確認をするわけですから、
言い訳できない。
そういう意味では、自分の嫌な面を見ることとなります。