日記

わかりやすい仏教(9.無明②)

こんばんは 副住です。
東京がお盆期間の為、遅くなってしまいました。
(西照寺は東京にもご門徒さんが多くおられます)
さて、続きです。
昨日、二つの質問をしました。どうだったでしょうか? 
最初の質問ですが、多くの人は「予定をたてることがある」と
回答したんじゃないでしょうか?
そもそも人生で「予定をたてたことがない」などという人は
いないでしょう。どんな予定でも構いません。
何かしら予定をたてたことがあるんじゃないかと思います。
対して二番目の質問です。
多くの方が「生きている」あるいは「わからない」を選択した
のではないでしょうか?
因みに「生きている」と答えた人は、仮に今日、大震災が来た
としても「生きている」といえるでしょうか? 
明日になってみないと「生きている」かどうかは「わかならい」
と思いませんか。
そういう意味で、「わからない」を選択された人が多いように
思います。
では、ここで皆さんを困らせてみましょう。
なぜ、私たちは明日生きているか「わからない」と言うのに、
先の予定はたてるのでしょう?
「生きていた時の為に、予定をたてる!」と言い訳するような
人もいるでしょう。
であれば、予定をたてる時に、死ぬことも想定した予定を
たてていますか?
例えば、友人と旅行する予定をたてるとして、
「ごめん、旅行までに死んでしまったら行けないけど・・・
その場合はどうする?」なんて話、聞いたことありません。
私たちが予定をたてる時は、毎回生きていることが前提で
予定をたてているのです。
それなのに、「明日、生きているのか、わからない」と答える。
明日、生きているのかわからないのに、
平然と数か月先や数年先の予定はたててしまう。
言っていることとやっていることが伴っていませんね。
どういうことでしょうか。
因みに、私も皆さんと同じように答えてしまいます。