日記

生き方 (西照寺の理念)

こんにちは 住職です。

一昨日頑張り過ぎました。再び違う場所の植木の刈り込みを行い、その後、土を掘り起こしてはドクダミの

根っこを抜き、土を埋め戻す。さらには、歩いてないので散歩もしました。7千歩くらいだけど。

普段はやらない作業を複数行った結果、疲れたのでしょうね。昨日は身体が痛く、若干のダルさが。

時期が時期だけに、こんなことでも、えぇ!と思ってしまうものです。しかし、熱もないし思い当たる事も

あるので、動揺はしていません。作業翌日に身体が痛くなるなんて、まだ若いのかもしれない!と言い聞か

せてます。やはり、自宅自粛が続くと、身体を動かさないから疲れてないのでしょう。良く寝れないのです

しかし、作業をすると、寝れるのです。大事なことだと思わされます。

これまでの日常では感じなかった色々なことを、この時期だからこそ、深々と感じ入ります。

これまでの日常の有り難さ。あの頃は当たり前!と思っていたことが、そうではなかった!と今だからこそ

頷けます。これまでの日常が、どれほど安定感の中で過ごせていたのか。何も心配はいらなかった。

しかし、心配がなかったことが私達を腑抜けにしてしまっていたことも、今だからこそ頷けます。

毎日を必死に生きる! 仏教は諸行無常を説くので、当然ながら、一瞬一瞬が大事。当たり前などあり得な

い。そう説いています。しかし、私達を取り巻く環境が安定していれば、私達の心も影響され、当たり前

当たり前。日常は続くのさ!と、真実に背く在り方をしていましたね。

今は、それらが奪われてしまい、皆が必死になる環境が整ってしまったわけです。

もうこれまでの生き方とは違います。危機感が現前にあるのです。

だからこそ、より活き活きとなれるはずなのです。必死になるから。ただし、困ることが多いということで

もあります。嫌だけど、困ることが多ければ人間は必死になれますね。生きている実感を深められる環境

なのかもしれません。しかし、困らない環境にいれば、ダラダラとしてしまい、必死さを保つのが難しい

環境となります。そうなると、生きている実感をあまり感じない日々となるのかもしれません。

これまで、仏教の教えは素晴らしいんだけど、中々人々の心に染み入り辛かったんじゃないかな!?と

思います。しかし、こんな環境になってしまったからこそ、逆に仏教の説くところが身近に感じられる

ようになるのではないかな!?と私は思っています。

もちろん、こんな環境になってしまったことは、私も人間ですから嫌ではあります。

これまで慣れ親しんできた環境の方が、生きている実感をあまり感じづらい環境だとは思うのですが、

「住めば都」で、あの頃の生活が懐かしくて捨てづらいですね。これは人間としての気持ちとして

私はそう思っています。しかし、仏教が説く真実は、一瞬一瞬を有難く生きること。

そのことを実感し易い環境となったな!と思える今は、仏教が伝わりやすい環境となったと言えるわけです

。僧侶としては、こちらがあるべき姿だと思っています。

人間として、と僧侶として、とでこの環境の異なり方の受け止め具合が真逆なのです。

だからどっちに転んでも納得できるのだから、今の私はある意味強い。

仏教が伝わりやすい環境になっていること。さらにはこの環境はしばらく続きそうだ!と思えるので、

あとはこれから来る困難を受けとめ受け止め、苦労をしながら進むしかないですね。

その時、困難と比例して、これまで疎かにしていた生き方の充実感が増すこととなるでしょう。

これからは「生き方」の時代ですね。私はせっかく人間として生まれてきたのだから

「楽しく」生きていきたい。そんな価値観をひろめていきたなぁと最近つくづく思います。

せっかくなので、西照寺はそんな生き方を重視するお寺にしちゃいます。

色々と変えちゃいましょう!ふふふ。