日記

ご葬儀

おはようございます。住職です。

今朝起床してから、肺に違和感を感じているので、運動を控えました。

違和感といっても、咳喘息のようなものではなく、ちょっと変な違和感です。

おそらく、寒くなってきたことに慣れてないのだろう!と自分勝手に思っていますが、クリニックに

行くほどでもないと受け止めています。ですので、ちょっと運動は控えて様子見です。

さて、今日はある方のお通夜を勤めさせていただくご縁を頂戴しました。

特にご遺族の方は、突然のお別れとなったようで、心労が多いことだと思います。

ましてや、愛着ある方との別れですから、とてつもなく大きな悲しみ苦しみだと拝察することです。

私達人間は、このような大きな別れを迎えると、どうしていいのかわからず、しかし何かしないといけない

と思え、とても苦しい状況になるのです。

そこで遥か昔から行われてきたことが、ご葬儀です。

有名なのは古代のネアンデルタール人は、亡きがらに花を手向けて弔っていたと言われています。

人類と他の動物の大きな違いは、「葬儀をするかしないか」つまり、「弔う心の有無」であるとも言われま

す。私達人間は、亡き人をそのままにしておくことができません。古くはネアンデルタール人が故人に花を

手向けて弔った。人間の祖先は、故人を弔うための作法を儀式化していき、やがて宗教がそれを取り入れ

現在は宗教が葬儀を担う専売特許のようになっています。

もちろん、宗教は教義的にも死の先の世界の事を指し示す部分もあるし、仏教でも人間界を超えた悟りの世

界についても説かれているので、ある意味死を縁として悟りの世界について触れる貴重な機会となっている

とも言えるでしょう。

因みに、仏教を説かれたお釈迦様は、死んだらどうなるのでしょう?との弟子からの質問に、答えなかった

(無記)と言われています。しかし、答えなかったこと=わからなかった ではないのです。

おそらく、それを説明してしまうことで、そこに捉われてしまう人間の本質をご存知だったのでしょう。

だからこそ、そこに捉われない(実体視しない)よう、敢えて説かれなかったと、私は解釈しています。

人間界を超えた世界のことを、人間界で説くことは、不可能なのですからね。

ちょっと難しいことを綴ってしまいましたが、ご葬儀は人間として、とても大切な営みであることを

綴りたかっただけなのです。現在社会は、葬儀にお金をかけたくない。あるいは、葬儀を重視しないよう

な傾向が進んでいます。しかし、大事なものではあります。もちろん、お金をかければいいというもので

はありません。しかし、お金がかかる部分はかかるのです。仕方ない部分もあるのです。

大事なことは、葬儀とは、ご遺族それぞれの人生に、区切りをつけていくこと!なのです。

人として、故人を弔い、亡き方とのこれからの関係性を再構築し、それぞれの人生に区切りをつけていく。

ここに葬儀の重要な意味があるのです。もしお金をかけたくない!というのであれば、家族なのですから、

葬儀社さんにご依頼せず、自分達で行えばいいのです。自分達でも、ある程度できるのです。

ただし、普段から宗教を学んでいなければ、また宗教が腹落ちしていなければ、死んで往った先が

どうなっていくのだろう?との難問に対し、答えがでないでしょう。

それは人生をかけて、そこに賭けている宗教者(しかも、きちんとした宗教者)でなければ、担当すること

が難しい領分だと思います。