日記

なぜ外出を控えたりできるのか?

こんにちは 住職です。

私が仏教を学んでみて、最初は頭で理解していたことが、行動となって私に根付くようになった

部分もあります。きっと、仏教の教えが、私の行動となって根付く事。そのような生活、人生が切り開かれ

てくる事。それが仏道を歩むという事なのでしょう。

仏道とは、道です。仏様に繋がる道。つまり、仏様となっていくよう歩む道ということです。

ですから、私は仏教者として仏道を歩むことは大事だろうと思っています。

この仏道を歩むということと、今の緊急事態宣言下における私の行動というものは、実際に経験してみて

繋がっているなぁと思わされています。

因みに、緊急事態宣言を受け、私の行動としては、外出を我慢してます。

実は2021年を迎えて、他人と会うような外出をしたのは、スーパーに1度行っただけ。

それ以外は、自宅で大人しくしています。

(運動に出かけることはありますよ。でも人と会わないし、会ってもすれ違う程度)

折角ですから、今日は仏道ということについて、少し長くなりそうですが綴ってみたいと思います。

仏教では自利利他(じりりた)という言葉があります。

一般的な仏教語辞典で調べてみると「自利は、自己の修行により得た功徳を自分だけのものとして受け取る

こと、利他は、自分の利益だけに止めないで、他の人々の救済につくすこと。自利利他とは、この両者を完

全に両立させることを(中略)理想とする」(『例文 仏教語大辞典』小学館)とあります。

親鸞聖人の教えからすれば、ちょっとだけ、解釈が変わりますが、皆様に判りやすく綴ると、上記のような

ものです。何となく解ってもらえるだけで、今はいいです。

この考え方を、今度はコロナ禍の今の状況に当てはめてみようと思います。

例えば、自利を「自分の欲望(出かけたい・遊びたい)を我慢する(修行みたいに)ことで得た健康

(コロナに感染しない)を、自分だけのものとして受け取ること」 利他を「自分の健康だけに止めない

で、他の人々の救済(コロナをうつさない)につくすこと。」

つまり、自分がコロナに感染しない行動をとることは、他の人々をも救うことになる!ということです。

仏教の自利利他は、仏様になる為の行動のことを意味しているので、直接コロナ対策と結びつけることは

できませんが、考え方的には似ている部分がありますね。

しかし、問題は若者の中に、今の日本人が自利利他という考え方や生き方を遂げられていないと感じる部

分があります。換言すると、悪い意味での自利だけで終わってしまっている。

悪い意味の自利というのは、つまり結局自分の事しか考えていないということ。

ある一部の若者には、悪い意味の自利「自分の欲望に従って得た快楽を自分だけのものとして受け取る」と

なっている人もいそうです。これを自分勝手といいます。

少数でしょうが、その行動でコロナに感染して、コロナを拡散させていくのでしょう。

だいたい人間は、皆が自分勝手にしたいものなのです。だから、これは当然と言えば当然な結果です。

私だって、時に自分勝手が頭を持ち上げてきます。どうにもならなくなって、自分勝手な行動をしていま

す。若い人なんて、よりそのような思いが強くでてて当然だと思います。だから若いんだもん。

もし、若い人が自分勝手な行動をしている!と責めるのであれば、それは大人の責任。

大人の後ろ姿をみて育ったのが今の若者なのですから。若者の責任ではないのです。大人が反省しなければ

いけない。(私は今後、西照寺を通じて、後世に生まれてくる人(若者)の手本となるような人を増やして

いく活動をしたいと思っています。)

さて、人間ですから自分勝手は当然なのです。当然だからこそ危ない。

ある意味、この本能的な自分勝手を抑制する手段こそが、宗教であったり、そこから派生する道徳や規律だ

と思います。最終的には法律になるのでしょうか。

自分勝手ではない生き方。それは他人のことも考えて生きる!という生き方でしょうか。

他人の為に、何かをする!ということは、そこには決まって自己犠牲が伴うものだと私は思っています。

人間、自己犠牲なんてしたくないのです。だって、自分が一番可愛いんだから。でも、時に自己犠牲をし

ても構わないな!と思う時もあります。

私の中では、今はそれに該当しているのだと思っています。

自宅から出ない。不要不急な外出はしない。この程度の我慢であれば仕方ない!と納得した生活を遂げてい

ます。それができるのは、私の中で自利利他という仏教の教えが根付いているからだろうと思っています。

正直、今の状況は、私のように周りに感染させたくない!と思い気を付けていながら生活している人も、

感染している!ということ。

ここまで来てしまうと、今後は我慢しなければいけない度合いが、はるかに大きくなってきてしまう。

これ以上の我慢となると、想像が追いつかないですが、内容によっては、私も我慢が限界になる時もある

でしょう。教えが根付いているといっても、限界はあるはずです。仏様ではないわけですからね。

その限界が見えて来た時、親鸞聖人の教えの通り、我が身を恥じる(教えの通りにできない自分の愚かさ

を痛感する)生活となっていきます。できれば、そんな状況にならないで欲しいんだけどな。