日記

変化の中での危うさ

おはようございます。住職です。

今朝は雨ふりです。運動は休みとします。

さて、現代社会を生きる私は、当然周りの環境によって、社会の環境に影響されて生きています。

そのような環境と影響によって、私の考え方や価値観も構築されてくるのだと思います。

例えば鎌倉時代と現代とでは、社会のあり方や環境(この場合は、社会制度や社会常識なども含める環境)

が違うわけであり、生まれてくる人は、それらの影響を受けて成長します。そうやって、生まれてきた人の

価値観が培われていきます。ですから、鎌倉時代の常識と、現代の常識は、当然違うわけですし、

時代が違えば、同じ日本に生まれながらも、考え方や価値観も、当然違ってくるはずです。

現代社会に生きる私も、当然ながら、現代社会の影響を受けながら育ってきました。

ここで問題となるのは、私は現代に生まれてきたわけですから、現代しか知らない!ということなのです。

だから、仮に現代社会に問題点があったとしても、当然その問題点に気づけないわけです。

例えば、生まれてこのかた、まずい物しか食べたことがなかったとしたら、まずさに気づくことはないわけ

です。「まずい=普通のこと」となります。

まずい事に気づく為には、美味しい物を食べる必要があります。

美味しい物を食べる事で、対比ができてくるのです。「美味しい」を知るから「まずい」もわかるのです。

この論理を使うことで、わかってくることは、現代社会に生きる私達は、現代社会しか知らないので

この社会が良い社会なのか、悪い社会なのか?の判断がそもそもできないのです。

もう少し詳しく論じれば、現代社会が抱えているかもしれない問題点が見えない!ということなのです。

例えば、鎌倉時代と現代の両方を生きている人がいたならば、それぞれの時代を対比できるので、

鎌倉時代の日本社会の良かった点、悪かった点。現代社会の良い点、悪い点が明らかに言えるはずです。

しかし、残念ながらそんな人はいません。現代の問題点を明確に指摘してくれる人がいないのです。

ですから、私達は歴史を学ぶのだろうと思います。歴史を学んで、現代と対比する。

そうやって対比することで、現代社会の問題点を見つけていくしか方法がないわけです。

ただし、現代社会の問題点を見つける為に、歴史を学んでいる人は、どれだけいるでしょうか?

おそらくそんな人はあまりいないだろうと思います。もっとも政治家はそうであってほしいのですが。

歴史を学ぶ多くの人は、過去にどんな事があったのか? 過去の出来事に想いを馳せたり、過去の人物

に好意を寄せたり、それぞれの関心事や趣向によって、歴史を学んでいるのだろうと思われます。

研究者であれば、自分の専門の分野の研究に対する証明や深堀の為に学ぶのだと思われます。

その派生の中で、現代社会の問題点を指摘される方がでてきてくださるのです。

ただし、現代社会に生きる多くの人にとっては、そんな指摘に関心を持つ人は多くないでしょう。

なぜなら、現代社会にどっぷりつかっている為、そもそも指摘される問題点に気づけないし、

指摘されたことが問題だとも思えない為、実感として頷けないのです。

ここに大きな大きな危うさがでてきてしまうのです。

特に現代社会は、科学が益々進展し、デジタル革命が起きています。いわゆるDXと呼ばれるものです。

つまり、仕事のデジタル化です。産業構造が変わる!とまで言われているほどです。

コロナによって、その時間軸が前倒しされてきていると思います。

こうなると、さらに社会環境が一気に変わってくるのです。変化のスピードが速すぎる!ほど

社会常識も変化していくのだと思います。つまり、現在のご高齢者の皆様と、10代の皆様とでは

すでに価値観が全く違くなっている。

これまでの価値観で言えば、数時代を経てようやく変わってきたであろう価値観の変化が

現代ではたった数十年で、そのような大きな変化が生まれてしまうのです。

考えてみてください。昔は聞いたところ、TVがある家は集落の中でも珍しい時代があったそうです。

TVや車は憧れ!

その後、TVは一家に一台となり、皆がTVを見ていた。車も同じ。必需品です。

それが数十年経過すると、今の若者はTVなど観ない。都心では車を所有する若者が減少。

そもそも免許すら持っていない。そんな時代です。

昔の価値観だと、情報は紙媒体から入手。当然、購入です。物は所有することが当然の価値観です。

それがデジタル社会では、情報はネットから入手。当然、無料です。

物は所有すると邪魔だし不効率だからといって、必要な時だけあれば良いので、シェア(借し借り)リング

エコノミーが台頭してきました。

若い世代に物の所有願望が少なくなれば、当然今後は物が売れなくなります。

では若い世代の価値観がどこに向いているのか?と調べてみると、自分の興味ある分野に対してはお金をか

ける。物の所有よりも経験や思い出が高まるものを重視したい。

何となく、外的物質の所有満足感よりも内的自己満足感を求める傾向が強くなってきている価値観に変化し

ているようです。

この変化をちゃんと捉えて対応していかないと、国内を商圏とする各産業は、今後大変な苦労をすることと

なるのだと予想出来ます。

私がここで言いたいのは、そんな変化を察知することも大事なのですが、お寺としてもっとこの変化に敏感

にならねばならない部分は、現代の日本社会における若い世代の求める内的自己満足感は、もしかしたら霞

がかっているあやふやなものかもしれないと言う可能性なのです。

おそらく、若者は自己満足感を高めたい気持ちはよく理解できるのですが、その向かう方向があやふやなの

かもしれないと思うのです。旗振り役もいなければ、どこに向かっていいのかよくわからない!

そんな状態で、悶々として自己満足感は高めたいけど、何をすれば自己満足感が高まるのだろう?と

悶々としている可能性があるのではないだろうか?と思えてしまうのです。

これには、決して若者が悪いわけではなく、私が思うに、現代日本社会が抱えている問題点なのだろうと

思えるのです。この問題点に気づく為には、やはり歴史を相対化する必要があると思うのです。

もう一つは、宗教者にこそ許されている 真実との対比によって見えてくる現代日本社会の問題点もありそ

うだ!ということです。

ただし、先にも述べましたが、現代日本社会の問題点に仮に気づけたとしても、それを現代日本社会に主張

したところで、おそらく伝わらないのです。なぜなら、各人達は、そんな問題点に気づきたくもないし、

そもそも、それが問題だったとして、だから何なの?となってしまうからです。

この溝を埋めるには、単に主張するだけでは駄目なのだろうと私は思っています。

声高に主張することは不要であって、そうではない何か、別の方法があるはずだと思っています。