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拠り所

おはようございます。住職です。

おそらく、今後のお寺の役割は、個人個人の生き方の中心軸となっていけるかどうか?だと私は思っていま

す。

多様性が求められる現代。

色々な人の存在を認め合う社会。

しかし、その根本となっている個人の生き方の拠り所まではまだ問われていません。

むしろ、個人個人に視点を当ててみると、それぞれの生き方の拠り所が脆弱である可能性があります。

人間一人だと寂しいものです。

どう生きて行けば良いのか?自信が必要なのですが、その自信が持てないのです。

なぜなら、拠り所がしっかりと確認できていないからです。

拠り所は、木の支えとなる部分の根っこのことです。(イメージ画像引用)

例えば、上の画像で例示すれば、木の根っこが、拠り所となるでしょうか。

そこがしっかりと根付いていれば、木の幹として例えられる「自分は何者なのか?」という部分がしっかり

できてきます。

画像には、幹の細さは関係ないと書いてあるけど、根っこがしっかりしていたら、幹は太くなるはずだと私

は思いますが。

また、木の枝の部分は例えるならば「自分がどう生きて行けばいいのか?」という部分に例えられるかも。

より進展させれば、自分がどのように生きているのか? どんな行動をしているのか? どんな人生を歩ん

でいるのか?など、そんな部分が枝の部分だと思います。

画像では、木の枝(太さは関係ない)とありますが、拠り所となる、根っこがしっかりしていて、幹も太け

れば、枝も必然的に太くなると私は思います。

このように、自分がしかりと自信をもって生きていくには、拠り所が必須だと私は思います。

自分が何を大事にしているのか? 自分は何者なのか? 自分はどのように生きて行けばいいのだろうか? 

とても漠然とした問題ではあるけれど、充実感をもって生きていくには必要不可欠な部分です。

特にこれまで(高度経済成長期頃)の日本社会では、生き方の道標は、地域社会の中にあったと思われま

す。

地域の眼を気にしながら、生き方のアイデンティティを構築されていったのです。

アイデンティティ=自我同一性と日本訳されます。 (画像引用)

その前(明治期から戦争後頃まで)は、おそらく天皇中心の国家観だと思うので、日本国や天皇が拠り所と

なっていたはず。

それ以前(江戸時代だったり、広くは武家社会)は、おそらく家族や一族が拠り所だったと思われます。

特に武士家系であれば、家に伝わる刀剣こそが生き方の象徴だったのかもしれません。

西照寺蔵 11月3日開催の文化財鑑賞会にて展示予定