日記

何かを体得する為には10年かかる。

おはようございます。住職です。

今年に入り、私は自分が果たすべき役割について、ようやく気付かされたのです。

これまで、自分がこの世界に生まれてきて事に対して、果たすべき役割があるなどと考えたことも

ありませんでした。

ここ数年、私が色々と教えていただいている先生が複数おられるのですが、その先生達から、上記のような

果たすべき役割について、色々と指摘されたり、問われたり、考えさせられるような刺激を与えてもらった

わけです。因みに、この複数の先生は、お互いを知りません。まったく別で関係ない方。

これまで、そんな事など全く考えたこともない私(たぶん、多くの日本人はそんなこと考えたこともないの

ではないでしょうか。そんな教育受けたことないし)でしたが、そんな事を刺激を与えられ続け、問いただ

され続け、指摘され続けてくると、悩みに悩むこととなります。そんな状態が数年ありました。

これまで、私は経営という事についても少しだけ学んできたので、例えば西照寺の理念として、何を果たす

べきか?お寺がどうあるべきか?など考えてきたことはあります。でも、それは私個人についてのものでは

ありません。西照寺というお寺ということだったわけです。

それなので、西照寺がどうあるべきか?などと考えてみても、なかなか答えなんてでなかったわけですね。

西照寺の理念を考えることだけでも、これまた、数年かかっていました。

因みに、時間的系列を言いますと、最初に西照寺の理念について悩み数年かかりました。私が40歳頃になる

まで悩み続けました。でも残念ながら、明確な結論は出せず。そのまま、どうしよう。と悩み続け、

そんな最中に、複数の先生との出会いがありました。一人の先生は5~6年ほど前に出あいました。

もう一人の先生は、4年前に出あいました。

特に、この2人の先生は、お互いを知らないんだけど、私に教えてくれるある部分で共通しているものがあ

りました。それが、私が果たすべき使命を考えろ!との事でした。

最初は、何を言っているのか、さっぱりわからず。むしろ、人間がこの世界に生まれて来るのは、別に何か

を果たすために生まれ来たわけではないだろう。そもそも、例えば生まれる前に神様か何かいて、私に

地球に生れたら、〇〇を果たしてきなさい!などと使命を与えられた記憶もないし。

むしろ、たまたま生まれてきただけじゃん。などと考えていたのです。

それなのに、先生達から、何度も何度も同じような事を問われ続けるうちに、う~ん。と。

仕方が無いので、私の考え方を変えてみることとしました。

人間、どのように考えるか、あるいはどのように物事を受け止めるか、などはそれぞれの自由です。

だから、考え方を変えてみることを敢えてやってみたのです。

私は何を果たす為に、この世界に生れてさせてもらったのだろうか?と。

でも、私にしかできないことなど、ないのでは? 私はそんな特別な能力をもっているわけでもないし。

むしろ、そもそも私は劣等生だったんだから、私にしかできないものなどあるわけない。 

などと自分を卑下するような考え方の方が顔をだしてきました。

しかし、それでも尚、先生からは問われ続けるので、他人がどうこうよりも、自分的にどうなのか?

何ができて、何ができないのか。何に興味があり、何に興味がないのか。などなどに思いが向いていきまし

た。

その後、ある有名な社長の本を読んでいたら、会社創設時、自分が何をしたいのか、周りの社員にコンコン

と伝え、想いを伝える事が重要であったとの事を知りました。

この本を読んだ時、先生達から言われていたことと相まって、私は自分の気持ちに向き合うようになりま

す。

私はこれまで10年ほど、お寺は何をするべきなのか?など、悩みに悩み続けてきたのです。つまり、お寺の

理念作りに悩んできました。結局、お寺の理念は明確化できなかったのですが、ただ、相当悩んだこともあ

って、そこには自分なりの想いなどもあったのです。

そこで、これまでの自分の気持ちを振り返ることで、なぜあの時あのように思ってたのだろう?と、

今年になって、始めてこれまでの自分の思いや考え方などを振り返ることとなったのです。

そうしていたら、自分の考え方の源泉にたどり着くこととなりました。

そこで納得できたことは、自分には自分の人生の歴史があって、その歴史こそが、今の自分自身なんだな。

という事でした。そうしたら、他人と比べても仕方がなくて、私は私なのだ。と思うようになりました。

つまり、私の人生は私しか歩んでいないわけなのです。

その時点で、他の誰でもない私となります。

そんな私は、この世界の為に何を果たすべきなのか?

そのように考えてみた時、自分なりの答えがでてくるのだと思わされました。それがきっと使命なのです。

自分がこの世界に、何を成し遂げる為に生れさせてもらったのか?との使命は、勘違いでもいいでしょう。

本当はそんな使命などないのだけど、私が勝手に勘違いして、使命があるんだ!と受け止めたっていいと思

うのです。

勝手に自分なりの使命をが創り、そこに人生かけて突っ走ることができるんだから、それでいいのです。

きっと幸せだと思うのです。なぜなら、一生懸命に生きようとするから。

今年になって、私は自分の使命をやっと見つけだすことができました。先生達に感謝しています。

そして今、その使命を果たす為にできる事を進めている段階にあります。

本当に、ここまで来るのに悩みに悩んで10年かかりました。

そういえば、仏教を学び、落ち着くまでにも10年ほどかかっています。

猛勉強して、仏教が何を言っているのか、心で納得するまでが約2年。

そこから浄土真宗の教義を学び3年。

その後、学生を終えてから、社会に出て、社会の中で教えを咀嚼するのに、5年ほどかかりました。

そう考えると、私の体感からの感想ですが、何かの分野で一生懸命頑張って、ようやくそこに納得できる

ようになるまで、つまり基礎が身に染みるまでには、10年はかかるのですね。ちゃんと努力してです。