日記

国葬当日なのに、デモって。

おはようございます。住職です。

今日も良い天気。秋晴れとなっています。

私は午後からZOOM会議がありますが、それ以外の時間はフリーなので、読書を進めたいと思います。

さて、昨日は安倍元首相の国葬でした。私は、開式直前までは見ていましたが、その後は違う要件に

時間を使っていました。しかし、その後のTV報道で国葬当日に大規模なデモがあったことを知り、

さすがに悲しいというか、恥ずべき日本を垣間見たように感じてしまいました。

国葬決定のプロセスや、故人の実績に対する良し悪しなど、色々な問題はあるとは思うのですが、

それでも、故人を悼む場である国葬の当日くらいは、せめて死者追悼への気持ちや、それに配慮する

気持ちを持ち合わせてもいいのではなかろうか?と思ってしまいました。

反対の声をあげるデモや、旧統一教会との関係について、問いただすのは、国葬の前後でやればいい。

今回のように、さすがに国葬当日に反対反対って。

死者に対する弔意や配慮が微塵も感じられない状況に対して、日本人として残念に感じてしまったのです。

もちろん個人的感想です。

私は今回の国葬に関しては、賛成派でも反対派でもなく、どちらかと言うとどっちもどっちだな。

と感じてました。

安倍元首相が亡くなった事件をTVで見てしまったし、一連の経過の直後に、国葬と聞けば、あの時は

気持ち的にも理解できました。しかし、そこから時間が経過し、新たな問題が浮上する中で、気持ちにも

変化が起きてきました。

冷静に考えると、国葬決定のプロセスには問題もあるし、故人の悪い側面(旧統一教会との繋がりや、各種

制定の法案など)もある事がわかってきました。

ただ、それはそれ!として、国葬をするとなった以上、その当日くらいは、おとなしく見過ごすなど、

配慮があってもよかったんじゃないかな、と私は感じます。

やっぱり、死者を追悼するという気持や、仮に弔意がなかったとしても、それを尊重できるような心があっ

て欲しいと思うのです。段々と日本人の心も欧米みたいな感じになってきているような気もします。

価値観が欧米化しているのでしょうか。自己主張が強くなり、競争を勝ち抜くことに重きがおかれ

勝者と敗者のように二分化、分断が起こってしまう。

自身の行動を顧みることが少なくなり、自己が正しい!との慢心に気づけない環境となっているような

気もします。 昨日の国葬に際し、弔問者とデモの人々の数が同じくらいらしく、TV報道では分断がみら

れたと言われていました。

分断と聞くと、数年前、イギリスのEU離脱に際しての国民投票の際の分断がありました。

アメリカではトランプ大統領が着任する際に、白人とそれ以外のアメリカ人との価値観の分断が叫ばれてい

ました。

そして今回、日本でも国葬を軸に、賛成派と反対派の分断が報道されました。

意見や見解が二分するから分断となるわけで、対立構図ができあがってしまいます。

私は、この対立構図そのものの考え方が欧米の価値観だと思っていて、それが日本にも色濃く根付いてきた

ように感じています。ここがたぶん問題なのだと思っているのです。

もちろん、生きていれば対立構図はあり得るのですが、対立構図だけ、いわゆる相対の価値観だけだと

行きつく先が最終的な孤立化に向かいます。ここを乗り越えていく、あるいは上手に付き合っていく術が

これからの日本には必要となってくるのだと思うのです。

これが難しい挑戦なのですが、やらないとね。