おはようございます。住職です。
昨日は、お目出たい法要に参列させていただきました。
私もお世話になっている、越谷市にある法光寺さまのご住職が交代されることとなり、
その住職継職報告法要に参列させていただきました。
法要は15時から法光寺さまにおいて勤まり、法要後は祝賀会が開催されました。
多くの皆様とお参りさせていただき、また新しくご住職に着任された新住職さまとは私も年齢が近い
こともあって、懇意にさせていただいていることもあり、嬉しいものでした。
法光寺さまの歴史は古く、築地本願寺と共に江戸初期からあるお寺さん。
そもそも今の築地本願寺は、昔は今の場所にはなく、浅草橋という今でいう日本橋の近くにあったのです。
浅草橋にあったので、浅草本願寺と言われていました。今の浅草がある場所ではありません。
今の日本橋近くに浅草橋という橋があって、そこの橋の近くに本願寺があったので、浅草本願寺と言われて
いただけです。
それが江戸初期の頃の話です。当時の残っている地図などを一度見たことがあるのですが、浅草本願寺を中
心にその周りに、確か十数カ寺の寺院がありました。法光寺さんもすでにこの時にあったお寺さんです。
因みに、西照寺前住職の実家である延浄寺も、浅草本願寺の近隣に小っちゃく建っていたようです。
当時の地図に載っていたことと、延浄寺に伝わる歴史資料を重ね合わせてみて、確かです。
さて、1657年に江戸の町を焼き尽くす大火事がありました。明暦の大火と言います。
この時浅草本願寺含め、近隣寺院もすべてが消失。江戸の3分の1位が消失したようです。
その後、浅草本願寺は場所を移転するのです。今の築地本願寺がある場所に。
これまでの説では、明暦の大火によって、幕府が区画整理(大火事にならないよう、通りを広くするなど)
をする!と言い出し、本願寺は幕府の指示で強制的に移転させられた!と言われていました。
しかし、最近の研究によると、幕府と本願寺が話し合い、合意のもとで、今の場所に移転をしたことが分か
っています。証拠資料が発見されたことで、発覚したものです。これは、10年程前に新聞記事としても載
っていました。
現在の築地本願寺がある場所は、明暦の大火直後は海だったのです。
海の場所に、本願寺を移転するということで、熱心な佃島門徒が大阪からやってきて、海を埋め立て地を築
いたのです。本願寺を移転する為に。
本願寺を移転する為に海を埋め立ててできた地が「築地」なのです。「地を築く」という意味でした。
この時に、築地本願寺の周りに、浅草本願寺の時にあった寺院以上にお寺が集まって、何十カ寺かが建てら
れました。当然、法光寺さまは築地本願寺の門前通りのとても良い場所に再建されます。
因みに、延浄寺も浅草本願寺から築地に移転しています。
ただ、地図をみると法光寺さまのように、素晴らしい場所ではなく、お寺が集う最後尾辺りに延浄寺があっ
たので、当時はあまり力がない寺院だったのだろうなと推察できますね。
しかし、延浄寺も浅草本願寺時代からあるお寺で、関東の浄土真宗本願寺派の寺院の中では、由緒あるお寺
なのですね。延浄寺の創建は1632年です。開基は西照坊というお坊さんです。
たまたま西照寺の寺号と同じ名前の人が、1632年に浅草本願寺の場所に、延浄寺を建てたのですね。
さて、法光寺さまに話を戻しますが、関東大震災も乗り越え、今の築地の場所にお寺があったのですが、
放火によって寺院が消失。これが、40年近く前の出来事のようです。
本来は、当地にて再建されたかったのでしょうが、一等地にある土地は、おそらく世間から要求されます。
様々な理由によって、当地での再建を断念せざるを得ない状況となったのでしょう。
これはあくまで私の勝手な推測です。
当地での再建を断念し、今の越谷市せんげん台の地に移転をされてきたのです。
ですから、今の法光寺さまは、もともとが築地のお寺なのですね。
前ご住職夫妻の、お寺を再建されるご苦労など、大変な苦難を乗り越えての、ご子息へのバトンタッチ。
そんな背景があった住職継職報告法要であったこともあり、感銘を受けた日となりました。