今月の法話

投稿日: 1件のコメントカテゴリー: 日記法話

こんにちは 副住です。
7月に始めたブログも、本日で200回の更新となります。
記念ですね。ほぼ毎日、西照寺のメンバーにて更新を続けてきました。
最初は いつまで続くのか?と疑問をもっておりましたが、皆さまに支えられて
継続中であります。
いつまで続くか判りませんが、今まで通りに更新できたらと思っています。
さて、以下今月のご法話です。
以前、TVで「惰性的に生きている」と語る若者が増えたと報道されているのを目にしました。
生きる意味を見失ったり、向上心がなかったり、理由は様々なようです。
しかし根源的理由を探せば、人の「死」を見せなくなった日本の社会風土に原因があるのではなかろうかと思わされました。
お釈迦様は悟りの境地より、生きることは苦であると明かされました。
それは私達の世界が「四苦(生・老・病・死)」という苦しみを常に伴っているからだと説明されます。
つまり生まれた事が原因で、「老・病・死」の苦を成立させるのであるから、「生」も又苦であると言われるのです。
この様に「生」とは、常に「死」に向かって進み、常に「死」と隣り合わせなのです。
それはコインが表裏一体であるのと同様に、私達の生き方も「生死」がセットで考えられて初めて成立するのです。
「死」を考えなくなった日本で、本当の「生」を送れるはずがないと、仏教の教えをききながら頷かされました。

有難く生きよう

投稿日: カテゴリー: 日記法話

こんにちは 副住です。
まず一言。住職、ご自分でお約束されたのですから、
ご自分でお話を載せていただけたらよろしいと思うのですが・・・
さて、以下は私が昨年の震災を通じ 感じたことです。
「東日本大震災の影響で、関東や東北の方ではしばらくガソリンの給油ができなくなったり、計画停電というものが起こった。
また日本全土ではミネラルウォーターが手に入らない事態が生じ、当たり前のことがそうでない状況に見舞われた。
被災地に住む知り合いからは、今ある非日常をとても不便に感じると共に、失って気付かされたことも多いと聞かされた。
例えば、停電のお陰で電気が付くことの有難さを感じるというのである。
そう考えると、私の命も同様のことが言えるかもしれない。そのことを特に痛感させられるのが、大切な人の死であろう。
大切な人を失って気付かされること、それは生の尊さでもあろう。
亡くなった方の仏事を通すことで、私の生の尊さを反省し、有難い命を歩ませていただきたいものである」
この画像は、昨年4月頭にボランティアで東北に行ったときに撮ったものです。
載せるべきか迷いましたが、現実をきちんとふまえていきたいと思い、載せることにしました。
嫌な気持ちにさせてしまったならば、お詫びいたします。