日記

「話のわかりやすい人」になる、たった一つの方法。

こんにちは 副住です。
昨日のブログ内容に関連してですが、今日のニュースで触れられていました。
「NHKスペシャル」で15分にわたり厳しい追及 理研・笹井氏自殺に影響はあったのか
自殺の一因になったかもしれない と書かれてありましたが、一番肝心な 「反省」あるいは「今後に向けた課題」については触れられていませんね。
さて、今日は話題を変えまして、私が関心の高かった話題があったので、ご参考までに。
「話のわかりやすい人」と「話のわかりにくい人」のちがい
私は僧侶として、お寺でご法話(仏様のお話をさせていただくこと)をさせていただく機会があります。
自坊(私のお寺)、あるいは他のお寺さまでお話させていただく機会もあります。
ご法話では、わかり易い話をしたいものだと考えています。
(仏様のお話は、私たちの思考レベルを超えている部分があるので〈私たちの思考が追いつかないという意味です〉、それを私たちのレベルに落とし込むことは、とても大変なんです)
そういえば、私が学生だった頃の様子を、ある先輩は教えてくれました。
「相手にわかってもらおうと思ってないように感じる」と教えてくれました。(つまり、自分だけわかっていればいいということと同義かもしれません)
これは、おそらく私が書いた論文について、先輩から見えた感想ということだったかと想像しています。
私は特に、精神的な部分(特に宗教の部分)の問題については、個人の問題だと思う節があって、論文にはその姿勢が出てしまったのでしょう。
先輩はそのあり方を指摘してくれたのです。
しかし、ご法話(宗教の部分の話)をさせていただくようになって、他の方々へも解ってもらいたいと思う部分もでてきました。
そうなると、「話のわかりやすさ」は大切になります。では、どう話たら「わかり易い話」ができるのか?
仏教の教祖であるお釈迦様は、対機説法(タイキセッポウ・・・その人その人に適した説法ができたという意味)ができたと伝わっています。
お釈迦様は、理解能力が異なる人々に、その人に一番適した方法(話し方)で教えを説いて理解させることができたのです。
それは、相手そのものがわかっているからこそ可能な技です。
いかに相手を察することができるか、いかに相手の立場(あるいは視点)で自分をみれるか、そこがものを言うのではないかということでしょう。
人間一人一人違います。同じ話をしていても、聞く人が異なれば、聞き方は違います。
だからこそ、「複数の方の前で話をする方法」と「個人的に話をする方法」は分けたほうがいいのかもしれません。
私はこれまで、ご法話では「伝えたいこと」に重きを置いていました。
皆がわかろうが、わかるまいが、「大切なこと」を伝えようと思ってきました。
しかし、上記の考え方からすると、「本当に伝えたいこと」は個人的に話をする方法で。
複数の方の前で話をする時は、「多くの方が共感できること」を大事に話をしていかねばならないのかと思っています。
ご法話に関していえば、複数の方の前で話すことは、「本当に伝えたいこと」に導く為に、「多くの方が共感できる話」をしていこうかと思います。(難しそうですが)
最終的な結論ですが、「話のわかりやすい人」になる為には、相手をいかに察することができるか が問題となります。
人間は人それぞれ違うので、あくまでも個人に視点をあてるべきです。
相手の立場を考え、顔色、仕草、目線など、あらゆる情報を察知し、話を展開できる能力が必要となります。
日々、そんなことを心がければ、いつの日かスキルが上がっていることでしょう。