日記

ふん切りのつけ方

おはようございます。副住です。
おめでとうございます。昨晩、埼玉県 小川町と東秩父村の細川和紙が無形文化遺産に登録されました。
小川町は西照寺から車で15分~20分くらいの場所にあります。近くです。
地理的な話ですが、東松山市を囲むように、町村がいくつもあって(これらを比企郡といいます)、昔から東松山を中心に纏まっていたようです。
東松山は昔から栄えていた宿場町のような感じなのだと思います。お城があったから。松山城という。
(因みに、松山城があったことから、東松山市民は未だに、地元を松山と呼称します。
明治期に廃藩置県の流れで市を作ることとなった際、政府に名称を松山市にしてくださいと申請したのだそうです。しかし、そのちょっと前に、愛媛から松山市の申請があったようで、
通らず、愛媛の松山市よりも東にあるのだから、東松山にしたら!と言われ、それで東松山市になったのだとか。そんな説もあります。もっときちんと決めてよ!と思ってしまいます)
さて、そんなことで東松山を中心に、今でも比企広域組合をつくって活動しております。
比企広域市町村組合
小川町も東秩父村も比企広域市町村組合の一部なのです。ですから細川和紙の無形文化遺産登録は、けっこう身近な感じの喜びです。
和紙を活かして、町おこし・村おこしをしてほしいものです。
さて、昨日の続きです。
「ふん切りのつけ方」は相当に大事だと思います。「ふん切りのつけ方」とは、換言すれば起きた出来事に対し、どのように「受け入れる」か。ということだと思います。
ただし、「受け入れ」方次第では、現実は前に進んでいるのに、本人は後ろに進んでいってしまうことだってありえると思います。もちろん、それが悪いことだとは思いませんが、苦しみを深める方向であろうとは思います。
 この世界では、私たちの「想定内の出来事」と「想定外の出来事」があるのだろうと思います。「想定内の出来事」であれば、比較的スムーズに「受け入れる」ことができるでしょう。しかし、問題は「想定外の出来事」です。「想定外の出来事」を「受け入れる」ことは難しい。「想定外」ということは、私の想定(理解)を超えているわけですから。そもそも想定していなかったものを、どう受け入れたらいいのか わからなくなります。どう受け入れたらいいのか解らないと、受け入れない場合もでてくるでしょう。
 一方で、どう受け入れたらいいのか解らないけれども、受け入れようとされる方もおられるでしょう。きっとこの時、最大の頼りとなるものが、これまでの自分の生き方であろうと思います。性格や経験則など。だからこそ、人それぞれ受け止め方には違いがでてくるし、受け止め方に正解があるわけでもないのだろうと思います。
 私は、私たちには「想定外」はあって当然だと思います。大切なのは「想定外の出来事」が我が身に起こらない時でも、「想定外」を意識した人生を歩むことであろうと思うのです。(「想定外」を意識するとなると、すでにそれは「想定内」に入ってしまうかもしれませんね。(笑))
 よくよく私の足元を振り返ってみると、「想定外」は沢山あります。例えば、この世界に私が生まれてきたこと。「想定外」ですよね。両親の子供として生まれ、いろんな人と関係を持って今日まで育ってきたこと。これも「想定外」。生まれてきたからには、いつかは死にます。でもいつ死ぬかということまでは「想定外」。私がいつ病気になるのか?ということも「想定外」。
 すでに訪れた「想定外」も、これから我が身に起こりうる「想定外」も、足元を見れば、沢山の「想定外」があるのです。しかし、私たちはそのことを考えません。(考えないから「想定外」なのですが。・・・)ただ、これらのことを意識して生活することは、とても大事なことだと思います。私がこの世界に生まれてこられた訳、ここまで生きてこられた訳、これらの「想定外」に納得ができる人生(意識できる人生)を歩んでいるのか、いないのか、これは大きな違いです。生き様の違い。足元の「想定外」に納得ができる人生を歩むものであれば、おそらく感謝の人生がひらけるのだろうと思います。いつ死んでも大丈夫という生き様がひらけてくるのだろうなと思います。(もちろん死にたくはないのですが)
 しかし、納得ができない(考えもしない)まま日々を送っているものには、命への感謝の想いが、前者に比べて、もしかしたら浅くなりそうな気もします。もちろん「死」が受け入れられない、どう受け入れたらいいのかわからない、そんな人生がひらけてくるのだろうと思います。
 足元にある「想定外」(生まれてきた訳など)に、1つの道を示してくれるのが宗教です。私たちは「想定内」のことは、自分の力で何とかできるように思えますが、「想定外」のこととなると、自分の力などではどうしようもありません。あまりに非力だからです。だからこそ、宗教の力が大切です。宗教には、私を超える力があります。(あやしい力ではありませんよ、誤解しないでください) 私を超える力があるからこそ、「想定外」に道を示せるのです。
宗教が生き様にある人とない人、両者、人それぞれの生き様がありますが、「想定外」に触れたとき、それぞれの生き様からひらかれてくる「受け止め方」に違いがでてくるでしょう。私はそんな時、可能であれば前を向いて進んでいきたい。