日記

今だからこそ、お寺の果たし得る役割。価値観の転換 (理性と感性のバランス)

こんにちは副住です。
2015年03月14日からの連載です。本日で6回目。
感性を磨くということは、人間の心を育てることに繋がるとても大事なことなのです。
私が思うことですが、宗教は感性と強く結びつく側面があると思っています。
例えば、人間がとても及ぶことができない、大きな力(はたらき)を感じとる感性があれば、宗教的な世界への入口となるでしょう。
だからこそ、宗教からたくさんの芸術が生まれているのです。
(例えば、絵画などは、神を表現しようと尽くされてきたものだったと思います)
浄土真宗では、阿弥陀仏の本願力という 目には見えない「はたらき」を人々に伝えていくことが大切となります。
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だからこそ、感性がとても大切なのです。
もちろん、感性だけでなく、私たちの理性に合わせるように教義もあるのです。
つまり理論もしっかり説かれているのです。こうすることで、理性と感性で伝えることができるのです。
しかし、理性だけで宗教(浄土真宗)を理解しようとしても、頭でっかちとなってしまい、本当に納得したり、頷けたりはできません。
私たちの理性を超えたものは、感性で受け止めねばならないのです。
(*専門的には、これは自力を意味しているのではありません)
人々が感性で、人間の理性を超えた力(はたらき)を受け止められたとき、そこに心の土台ができあがります。
つまり、心の中に人生の拠り所ができることとなるわけです。
それは阿弥陀仏だったり、神様だったり宗教の違いはあるでしょうが、兎に角、拠り所ができます。
その拠り所ができると、神仏に背を向けないような生き様を遂げようとする自覚ができてきます。
この自覚をもっているものが、宗教者ということになるはずなのです。
お寺であれば、僧侶ということです。
ですから、僧侶はお寺で「人間の生き方とは如何なるものなのか」を説いていく役割をもっているはずなのです。
つまり心の教育機関であるべき場所なのです。
宗教(浄土真宗)を頼りとする生き方を伝えるには、特に感性が大事となります。
ですから、お寺では、人々の感性を育てるような役割が必要なのです。
きっと、先達達はお寺でそのことを行ってきたのだろうと思うのです。
だからこそ、今でもお寺は「落ち着く」と感じてもらえるような、普段と違う雰囲気が流れているのだと思います。
現代の日本社会では、感性にもっと視点をあて、お金こそ大切!という価値観を見直す必要があるとのではないかと考えます。
そのことが主張できる機関こそが、お寺ではないのか!?と思うわけです。

今だからこそ、お寺の果たし得る役割。価値観の転換 (理性と感性のバランス)” への1件のフィードバック

  1. お久しぶりです。連日のブログ意義深く拝見致しました。貴職の気合いが伺えた内容だと感じましたので、小職も気合いでお応えしたいと思います。貴職のお考えを少しゆさぶってみます。お彼岸が終わったら考えてみて下さい。
    1.貴職の論理への疑問
    貴職のご意見において、お金こそ大切という価値観を見直し、感性にもっと視点をあてましょう、そのことを発信できるのがお寺です、という部分が一番の肝であると感じます。そして貴職の表現によれば、お金こそ大切という価値観こそ経済合理性ということになろうとかと思います。つまり経済合理性と感性とは対峙的な関係であり、両者のバランスを見直す、言い換えると経済合理性に偏重した現代の価値観のベクトルを感性の方にも引き戻すことが重要であるとおっしゃりたいのではないか、と感じました。
    小職の疑問は、経済合理性と感性というものは対峙的な関係なのだろうか、ということです。経済合理性を追求する人間の活動の最たるものは商売であると言えます。1円でも多く無駄をなくし、1円でも多く利益をあげることが商売の要諦であると言えるでしょう。一方で近江商人の教えに「三方よし」というものがあります。「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」よい商売と言えるためには、自分の利益だけを考えてはならないという教えであり、現代では企業理念というものに通じていると考えます。この三方よし、という考えは論理から導き出せるものではなく、このような理念を掲げて商売をしている企業が大成している、というにすぎず、貴職のいう目に見えない感性というものに含まれるのはないか、と考えます。つまり、経済合理性を追求しようとするならば、よい感性を持たなくてはならないのではないか、両者は対峙的なものでなく、根っこでは相即相入の関係にあるのではないかと思うわけです。
    2.対峙的に考えることの問題
    現代では、ものごとを対峙的にとらえることが多いように思います。最近では18歳は子供か大人かという議論が法律の改正という問題につながっています。対峙的にすることで問題の所在を明らかにしやすいのですが、一方では物事の本質を見えにくくしているという側面があるように思います。例えば成人年齢を18歳に引き下げるというのは何のためにするのか、引き下げることでどんないい点があるのか、悪い点が発生するのかを議論することに意義があるのであり、大人か子供かを議論すること自体にはあまり意味がないように思います。
    何が言いたいのかというと、ものごとを対峙的にとらえると、並び立つ両者が漠然としてしまい、本質が見えにくくなるということです。大人とは何か、子供とは何か、と聞かれると、小職は回答に窮します。経済合理性とは何か、感性とは何かということを小職は漠然としか理解できていないように思います。つまり何となく貴職のいいたいことは感じることができたのかも知れませんが、本当に貴職の言いたいことが理解できたのか、非常に疑問です。
    また、対峙的にものごとを考える罠として、以下のようなことも言えると思います。よくAかBか、という問いに対して、Aのここはダメ、そこはダメ、従ってBであるという回答がなされることがありますが、これでは答えにならないわけです。Bを採用する理由を論理展開していないからです。経済合理性でなく、感性を大切にすると、こんないいところがありますよ、あんないいところがありますよ、だからぜひお寺に来てください、と発信するのがご住職の役割ではないか、と思う次第です。
    ぶっちゃけて言うと、B子さんを口説くときに、A子さんのここがダメ、あそこがダメ、だからB子さんあなたが好きです、と言っても振り向いてくれないでしょう。B子さん、あなたは美人で、料理が上手で、いつも笑顔で…、というから口説けるわけです。(小職の経験ではありません!)
    以上です。機会があれば以下の書籍に接してみて下さい。小職が目標とする弁護士、鳥飼重和先生がその著書「考運の法則」(同友館)34頁で以下のように述べています。
    人間の特色を活用した、実践的な考え方をするのが宗教ですから、宗教の中心である祈りは、人間の特色を活用した合理的な方法でできているのです。祈りは宗教的であるために神秘的に捉えられがちですが、本当は人間の特色を生かすという意味では、もっとも合理的かつ、実践的な方法なのです。
    →感性を磨くことこそ合理的という論も展開できるのではないでしょうか?貴職の研究を期待しています。

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