日記

お布施の意味と現状

こんにちは 副住です。
昨日の「アマゾンで宅配お坊さん」の続きです。
今後、アマゾンでお坊さんを依頼する方が、一定程度増えそうな気もします。
だって、お布施の額は、決まってないし、いくら包んでいいのかわからない。
皆さんの困り事の一つでしょう。
そういった意味で、価格を明示しているアマゾンのお坊さん依頼は、その点が明瞭ということです。
ただし、会社化しすぎていますね。
会社というのは、営利目的ですから、そこに僧侶としてのプライド(仏教を大事にするという心)があるのかが
これから見極めなくてはならない部分だろうと思います。
そもそもお布施というのは、仏教用語で、六波羅蜜行(ロッパラミツギョウ)という修行の一つです。
『般若心経』というお経が有名ですね。
その「般若」の正式名称が、般若波羅蜜多(ハンニャハラミッタ)です。
般若波羅蜜多とは、さとりのことを意味します。
つまり、さとりを完成するための修行が、六波羅蜜行という修行なのです。
六波羅蜜だから、六つの修行があるのです。
その1番目が「布施」です。
布施の行は、自分が執着する大事(宝物)なものに、とらわれすぎないように、
大事なものを他に差し出し施すという修行です。
そうすることで、執着から開放されることを目的としています。
大事なものを施すというのは、とっても苦しいです。
はっきり言って嫌です。だって、執着しているから。手放すの嫌です。
大事なものだからこそ、ずっと守りたいでしょ。
だけど諸行無常の世界ですから、いつかは失います。
大事に守ってきたものほど、失った時の苦しみは深いものです。
仏教は抜苦与楽(ばっくよらく)の教えです。
つまり、苦しみを抜いて、楽(この場合は安心という意味)を与える教えですから、
苦しみを深めてしまう、私達の執着心を捨てるよう修行をしろ!というのです。
それが布施。
大事なものほど、早く施す。そうすることで、執着という煩悩を深めないようにするわけです。
施す先は、仏教を学ぶ僧侶です。僧侶は、その施しに執着など起こさず、仏教の為(言い方換えれば、人々の為)にそれを使います。
だからこそ、施す先が大事なのです。施す先が執着心を起こすようなら、意味ありません。
ここに、施した側と施された側、施しそのもの(例えばお金)が、執着から離れたという意味で、浄財(きよらかな財)と呼ばれます。
凄いですよね。なかなかできない修行です。
これが、形を変えて広まったのが、今のお布施。
お布施は現在、お金という形で施されます。
お金って大事ですものね。みんなが執着しやすいもの。
だけど、人によって持っているお金の金額は違う。
さらに、お金に対する執着度だって、違うことでしょう。
これは全くの偏見ですが、お金持ちほど、お金への執着心は強いかもしれませんね(笑)
だからこそ、お金に執着心が強い方ほど、その心を捨てるため、たくさんのお金を布施することが本来の意義に適うことになります。
でも、お金にさほど執着してないのであれば、お金を布施したって、意味ありません。
その場合は、もっと他に執着してしまうものを布施しないと意義にかなわないのです。
そんな背景もあって、お布施は人によって金額が違う(お金に対する執着度)ので、金額は明示できない!!となるわけです。
しかし、すでにそのような尊い意味は欠落している現状では、そんな意見は通じませんね。
施す側は、できれば安く!と思っていそうだし、施された側だって、私利私欲となりがち。
(お寺が人々の為にお金を使っているでしょうか?そうであったとしたら、もっと尊敬されているはずです。
できていないのであれば、今よりちょっと背伸びするだけでもいい。それだけでもだいぶ違ってくるはずです)
お金そのものも、施す側や施された側の執着心で汚されている。浄財どころか、汚財(笑)かもしれませんね。ハハハ。
そんなこんなで、現在の日本では、「お布施は対価」になってしまっているように思います。
それならそれで構わないかなと思います。
そのような流れが、アマゾンで宅配お坊さん を生んだのでしょう。
お寺にも経営はあるので、お金は大事ですが、そこに執着しすぎると、仏教ではなくなりますね。
西照寺は、お金を大事にしますが、それを西照寺の考え方にそって、上手に還元していければと思ってます。

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