日記

節分

おはようございます。副住です。
今日は節分。なので、ちょっと長いですが、節分の意味を説明しながら
簡単な説法にしてみました。どうぞ
一段と寒さが厳しく感じられる2月に入りました。しかし暦の上ではもう節分。冬から春へと季節を分ける節目の日なのです。
節分と言えば、夜に行われる豆撒き。
“鬼は外!”         “福は内!”
お寺や神社、あるいは家庭で、豆を撒きながら邪悪な鬼を追い払う光景を目にします。でも、どうして節分に豆を撒いて、鬼を追い払うのでしょうか?
 
昔の日本では、春が一年の始まりだと考えられていました。だから、節分の翌日の立春が新年だったのです。現在でも、年賀ハガキに迎春などと書かれてありますね。あれはその名残りなのです。
新年を迎えるにあたって、禍〈わざわい〉を追い払う。そんな考えは、今も昔も変わりません。例えば現在だと、大晦日に大掃除をしたり、お寺の鐘をついて煩悩を払って心を清らかにしようとしたりしています。昔は、この禍を追い払う行事が、春になる前の日である、節分に取り入れられ、現在の邪悪な鬼を追い払う、節分の豆撒きとなったようです。
 
最近の節分には、年男・年女の芸能人などが、豆を撒いている姿をテレビで見かけます。なんとも微笑ましいひと時です。しかしながらその内容を考えてみると、とても笑えません。
豆を撒きながら“自分にとって悪いものは外に出て行け!”“自分にとっていいものだけは内に来い!”と大声で叫んでいるのです。そこには自分の事だけしか考えない、人間の本性の姿があらわされています。
 
私達人間は、自分に余裕が無くなれば、自分勝手に行動し、周りの状況を考えず、時には家族をも殺してしまう。私達の内側には、自己中心という邪悪な鬼がいるのです。
 
仏様の智慧とは、自も他も超えたはたらきです。そこには自分中心というあり方ではなく、自他〈じた〉平等の世界がひらかれています。仏様よりみれば、私達の世界のあり方は、様々な支え合いによって成立する世界です。“自分さえよければ”という世界ではないのです。
そのような仏様の智慧に照らされる時、私の内にいる、決して外に追い払うことのできない、自己中心という邪悪な鬼がみえるのです。なんとも情けない限りです。