日記

学ぶ姿勢

こんにちは 副住です。
調子を崩しました。でも投稿
過日からのブログで綴っているように、私は、自分が人生をかけて、
お寺を継いでいいものかどうなのか?を知りたくて、
勉強をしてきました。
ですから、私の勉強の姿勢には、常に「どうして?」
という疑問がついてまわりました。
例えば、「極楽浄土」とか言いますよね。
それが私の学びの中では、「極楽浄土って何?
私にとってどう関係するの?」みたいな視点で疑問を持つのです。
「極楽浄土って何?」と疑問をもっても、お経の中に、
極楽浄土の説明はされています。私的に簡単に書けば
「阿弥陀仏の世界。苦しみを超えた世界」みたいな感じです。
一応「極楽浄土って何?」との疑問に対する答えはお経で確認できるのです。
「お経にはこう書いてある」と納得できる人であればいいのですが、
私は違います。
「お経にそう書いてあっても、だから何なの?」
「それが私にどう関係するの?」と疑問に思ってしまうのです。
おそらく、そこまで疑問に思う理由は、
私が人生かけてお寺を継いでもよいのかを知る為に、
教えに納得しなければ嫌だったからにつきると思います。
だから、「私にとって、それが何なの?」という学ぶ姿勢
が常にあったわけです。
今から考えれば、日本の教育は詰め込み式(私の時代のことです)
といわれますが、それって、「教科書にこう書いてあるから」
みたいなことで、自分が納得できるかどうかはあまり重要
ではなかったようにも思います。日本の教育環境がそうだったのでしょう。
だからなのかはわかりませんが、私は小・中・高校と、とても勉強嫌い
でしたし、成績も悪かったのです。
興味がわかないし、詰め込む頭となっていなかったのでしょう。
生来詰め込み式教育が合わないタイプなのかもしれないし、
単に詰め込み式の勉強から逃げていただけなのかもしれません。