お寺で文化に触れる

投稿日: カテゴリー: 日記

おはようございます。副住です。
昨日の続きです。
その場合、関連がある山の裾野部分に広がる「文化」を
見つけないと意味がありません。
関係がない全く違う山の裾野部分に広がっている「文化」
に注目しても、意味がないのです。
 
だから例えば、西照寺であるならば、浄土真宗本願寺派
という「教え」の裾野に広がっている文化。
あるいは、西照寺の住職一族という「家」に伝わっている文化。
あるいは、埼玉県東松山市という「地域」の裾野に広がっている文化。
これらに着目することで、またはミックスすることで、
他のお寺と違う、独自の「文化」を掘り起こすことができると思うのです。
あとは、見つけた「文化」が如何に多くの人々の関心を引き付けるものに
アレンジできるのか?
そこは、工夫や手腕となるのでしょう。
今の私の今後のやるべきことなのです。
因みに、西照寺文化財鑑賞会も、その一つとしての意味もあるのです。

関連ある別の山

投稿日: カテゴリー: 日記

おはようございます。副住です。
というわけで、これからのお寺は
「文化」に注目をする必要があると思います。
釈さんのその説に、私は自分なりの付け加えができる
と思っているのです。
釈さんは「教え」という山の裾野にある「文化」が大事である
と言われました。しかし、お寺は全国各地にあります。
浄土真宗本願寺派だけでも全国に1万以上のお寺があります。
つまり、各お寺は「教え」は共通だけど、地域や成り立ち、
あるいは寺院を担う家族が違うのです。
ですから、釈さんの「教え」という山の裾野にある「文化」だけではなく、
別の山の裾野に広がる「文化」を見つけてもいいのではないかと考えています。

山の裾野

投稿日: カテゴリー: 日記

おはようございます。副住です。
昨日のブログに綴った内容であるお寺の存続を考える時、
「山の裾野部分が大事」とのことですが、その内容は、
釈徹宗さんが本に書かれていたことなのです。
釈さんは、浄土真宗の僧侶で、相愛大学の教授。
現在の浄土真宗本願寺派で社会的に知られた方かもしれません。
池上彰さんや宮崎哲弥さんから対談者として選ばれている方です。
私も、これまで何度か釈さんと対談や、シンポジウムで釈さんを
パネラーとして迎え、その際、司会を務めるなどご一緒させて
いただきました。とても鋭い方ですし、学ぶことが多い方です。
その釈さんの本を読んでいた時、先述の「山の裾野」の内容
があったのです。
釈さんは、社会とお寺を繋いでいる一番強い部分は
「山の裾野」だと言うのです。
つまり、山頂である「教え」から派生した、
山の裾野部分にある「文化」。
その「文化」こそが、多くの人々との接点を作る場所であるというのです。
裾野は山頂よりも広いです。
だから多くの人と接点がもてる場であるというのです。
一方の山頂は登るまで大変だし、一部の限定された人々にしか接点ができません。 
ですから、お寺が時代時代の社会の人々から存続要請を
得る可能性があるのならば、それは一番多くの人々とお寺が
接点をもつことができる「文化」にあると言えるわけです。
多くの人にとってお寺が一番身近に感じる部分こそが、
実は山の裾野部分である「文化」にあると釈さんはご指摘くださいました。

お寺では、裾野こそが大事なのかもしれない

投稿日: カテゴリー: 日記

おはようございます。副住です。
さて、お寺の中心と言えば、私は「教え」だと思っています。
しかし、「教え」のみで寺院が1400年以上社会から
求められてきたとは私には思えません。
おそらく、「教え」を中心としたその裾野の部分。これが大事。
山で例えると、山の山頂の中心が「教え」だとして
「教え」から派生した多くの「何らかのもの」が
山の裾野を作っているということです。
例えば、キリスト教であるならば、「教え」は聖書。
その聖書にあった物語を絵として表現してみよう!となって、
始めて宗教画が描かれた。これが絵画の誕生だったと聞いたことがあります。
つまり、「教え」から宗教絵画が派生した。
当時は宗教画(神との関係)しか描いてはいけないルール
だった時代もあったそうです。
その後、時代が下ってルネッサンスで
宗教絵以外にも書かれるようになって
西洋絵画が発展したと聞きました。
そのような例えであると、「教え」=聖書が山頂の中心。
そこから派生した宗教絵画・あるいは絵画が、山の裾野。
と言えます。
宗教絵画が教会などの壁面などに描かれたりすることで、
教会に観光に来る人がいる。あるいは、教会が大事に扱われる。
(絵画は、裾野の一例にすぎません。その他にも多くの裾野があります)
ある種、そんなイメージで、教会が時代を超えて社会的な存続を
認められてきたのだと理解ができます。つまり、経営ということ。
そう考えると、教会も「教え」だけで存続(経営)してきたわけではなく、
山の裾野部分に支えられてこそ、長い歴史の中で社会的な存続
要請がなされてきたのだと思います。
それを日本のお寺に当てはめるならば、どんなことが言えるのだろう?
と思っているのです。

今日は第二土曜日:西照寺法話会

投稿日: カテゴリー: SNS公開日記

おはようございます。副住です。
本日は第二土曜日、西照寺法話会の日です。
場所は西照寺本堂
時間は13時半から 読経
   14時から  ご法話
前回から歎異抄を読み始めました。
先月、法話会をお休みしたので、
今回も、前回の復習を兼ね、歎異抄の
始めから話をしていきます。
どなたでも、ご参加いただけます。
参加費は無料です。

お寺の本質

投稿日: カテゴリー: 日記

おはようございます。副住です。
さて、お寺って随分長い歴史があります。
日本の歴史を見てみると、聖徳太子が仏教を
取り入れ、四天王寺や法隆寺を建立された!と
習いました。
ですから、600年頃にはお寺は日本にあったわけです。
その後、現在まで1400年ほど続いています。
私の関心は、何がお寺をこれほど長く日本に存続させて
きたのだろう?という部分です。
1400年も経っていれば、その時代その時代で
常識だって変わるだろうし、習慣だって変化してきている
はず。もちろん、価値観だって変化してきているはずです。
しかし、お寺は絶滅しないで残っている。
(もちろん、個々のお寺という意味では、廃寺になったりしてますが)
時代を超えて、お寺が残っている本質に、私は興味があるのです。
これからの時代、特に変化が異常に早く、価値観さえもがバラバラに
なっていく時代と言われます。どんな業種であれ、存続する保証はありません。
お寺もある意味、同じだと私は思っています。
ただ、お寺には1400年続いてきた!という歴史と事実があります。
それは、時代時代に存在を望まれてきたことを意味しているわけです。
だからこそ、その本質を見極めることが、今後、お寺が滅亡しない
道に繋がるのだと思っています。
そんな関心事を心に秘めながら、活動をしているここ数年です。
でも、なかなか答えに至りません。
ずいぶん、難しい道です。

常識を疑うことから・・・

投稿日: カテゴリー: 日記

こんにちは 副住です。
連載の投稿内容に戻ります。
そもそも長い時間、常識が常識のまま成立するには、
その都度常識を問い直す必要があると思っています。
昨年の常識は今年の常識とはなり得ないこともあるからです。
それが諸行無常でしょう。
もちろん去年の常識が今年の常識ということもあります。
問題は、常識を判断する私たち一人一人が、
「常識」に対して主体的に考えているかどうか?だと思います。
「常識」を疑うことから、新しい突破口が見えてくる時
があるし、そこから面白さが加わってくる場合だってあるのです。

今日の報告

投稿日: カテゴリー: 日記

こんばんは 副住です。
今日は「西照寺文化財鑑賞会 2018 春」でした。
10時から開場し、30分ほどしてから途切れること
がなく、鑑賞会に来て下さる方がおられました。
嬉しかったです。
また、JCで一緒に活動したTさんご夫婦も
個人的に来てくださったことは、とても嬉しかった
です。情報を知って、来てくださったようです。
ただ、ゆっくりと説明や対応ができなかったことが
申し訳なかったと思いました。後日、感謝を伝えます。
それにしても、終了時刻の15時まで人が来てくださった
ことは、本当に有り難いことでした。
明日まで鑑賞会はありますが、明日は平日だし
どうだろうな。と思います。
一日のみと勘違いした父は、外の幟を下げてきてしまいました。
明日もあるのに。

明日から2日間

投稿日: カテゴリー: イベント大谷浄苑情報情報・お知らせ

こんにちは 副住です。
明日と明後日は「西照寺文化財鑑賞会 2018 春」が
開催されます。
場所は西照寺本堂
時間は10時~15時まで。
今年は特別にお寺で精進料理も限定20名の方々に
振る舞われます。初めての企画です。
文化財を体感してもらいつつ、お寺で精進料理を食していただく。
すでに、20名のご予約は満員御礼。
(文化財鑑賞会は予約要りませんし、限定ではありません)
春の一時を文化財を体感することで
有意義な時間を過ごしていただきたく存じます。
年間2回の特別展です。
次回は秋の開催です。

継続事業

投稿日: カテゴリー: 日記

おはようございます。副住です。
「多くの人が共通して思うこと」の中には、
「何となく思っている」という単純なことも含まれています。
つまり、多くの人が「特に理由はないけど、何となくそう思う」的
な「常識」も多くあると思います。
私は、多くの人が各自で真剣に考えた結果、
「共通して思うこと」が「常識」であれば素晴らしいなと思います。
もちろん、全部のことに、そんなことできませんがね。あくまで理想。
しかし、現実は多くの場合で考えを放棄していて(私もそんな時もあります)、
「特に理由はないけど、何となくそう思う」的な「常識」も多く
存在していると思います。
そのような「常識」は、論理的に考えると、結構説得力に欠ける場合があります。
例えば仕事においても、「継続事業でやっているので、今年もやります!」
的なことってありませんか?
継続事業ということが常識化されてしまい、何となく今年も行う!
みたいなパターンです。
この場合、「継続事業なんだから、今年も何となくやろうと思う」みたいな
常識が築かれてしまいます。
それはそれで良いとも思いますが、私的にはダメなのです。
考えを放棄しているように感じるのです。
私の場合、まず「何で継続事業となったの?」から入ってしまいます。
つまり常識を疑うことから入ってしまうのです。
ただし、そこで継続事業に対し、自分が納得出来たら、
今年も目的をしっかりと見据えて行おう!となるのですが。