日記

宗教をもつ意味(生きる目的) 不安な状況だからこそ

こんにちは 住職です。

お彼岸の最終日。暖かで穏やかな日となりそうです。

今年の春のお彼岸は、強風がありましたが、基本的には晴れが多かったですね。

春らしい陽気と言えるかもしれません。桜も、8分咲きくらいです。

今年は、暖かくなるのが早いですね。

昨日のブログで、いつ開催するのだろう!?と心配していたK-1ですが、昨日開催されたようです。

ビックリしました。そんなすぐだったんだ!って。

今の私の感想としては、終わったことに対して、どうこう言っても無駄な事。

あとはクラスター感染者がでていないことだけを願うばかりです。

さてさて、それにしても困った状況となりましたね。先が見通せないし、経済は動かないし、

正解が何なのか?がわかりません。こんな時は不安にもなりますね。

日本はパニックになっておらず、そういった意味では不安ではあるけど、まだそこまで危機的不安では

ないような状況なのだと思います。

しかし、もし感染者が拡大してきたり、あるいは経済的に酷くなり、生活ができなくなってきそうな状況

などが迫ってきたら、強烈な不安に襲われることとなります。

私も例外ではないと思ってます。

私は仏教を学んできたのですが、こんな時に、仏教を学んでいたら、どんな風なの?という事を

率直に書いてみようと思います。

私的には、このような不安の中でも、あるいはより強烈な不安に襲われたとしても、当然不安な気持ちは

でると思うのですが、不安だけに覆われることがないと思うのです。

仏教と出会ったことで、つまり、仏教が心の中に染みわたったことによって、思想に根っこができたので

す。考え方と言えばいいのか、生き方と言えばいいのか、思想と言えばいいのか、表現に迷いますが、

要は、根源に根っこができたのです。

その根っこは、どんな強風(不安な状況)が吹いてきたとしても、抜けることがなさそうなのです。

具体的にどのような根っこなのか!?と聞かれたら、「最終的に、私は死んで仏様の世界に往くんだ!」と

心底納得させられていること。それが根っこの正体です。

ただ、人間だから死ぬのは当然嫌なんだけど、死んで往ける世界を持っている状況になるのです。

そこが根っこ。この根っこは、揺るがないんです。

つまり、死が終わりではないの。

でも、おそらく仏教を学んでなかったとしたら、きっと「死は終わり」なんだと思ってしまうかもしれませ

ん。もしそんな風に思っていたとしたら、つまり死が最終地点だったとしたら、きっと死がチラついてくる

状況がきたら、不安でたまらなくなりそうな気がします。死が終わりだったら、当然死を受け入れたくない

し、死がチラつく状況になれば、不安に覆われてしまうだろうと思うのです。

仏教を学ぶと、そもそも始まりとか終わりとかっていうこと事態が、自分の作り出した妄想だということに

気づけるのです。そうなると、結構楽なんです。

死後の世界に納得がいくって、とても大事なんです。私達が生きているこの世界は、対比の論理で成り立っ

ています。例えば、右がわかるから、逆の左が明らかになる。美味しいことが判る為には、不味いことを知

らないといけない。つまらないという状態を知っているから、面白いことが判る。すべて、対概念。

さらに言えば、より深く知ることで、反対のこともより深くわかってくる。頷けてくるのです。

不細工な男性を知れば知る程、反対にカッコよい男性に深く頷けてくるのです。

あるいは、本当に不味い物を知っている人は、本当に美味しいと思える物に出会える確立が高まりますね。

あまり不味いことを知らない人は、美味しいということにも気づけなくなります。

人間の最大の悲劇は、死がわからないということ。

死がわからないと、逆の生もよくわからないの。

だから、感度が良い人は、何の為に生きているんだろう?とか疑問に思ってしまう。

その点、仏教と出会えた私は、死そのものはわからないんだけど、死んで往ける世界を持ってる。

そうなると、今の生きている世界も、ある部分で肝が据わる。今の人生は、一つの流れなの。

果てしない時間などの流れの中に、自分という一時的な人生がある。

時として、何の為に生きているのか?という人も、この世界にはいますね。感度が鋭いと思います。

でもね。そんなことは自分が納得したいだけの問い。 生きているから生きている。

生きている事実に、自分なりに目的をつけたがるのが、私達。それは欲。

目的をつけることで、より充実して生きたいのだと思う。

でも、生きている目的がもしあったとして、それは私達の陳腐な頭脳ではかれるわけがない。

私たちが生きている目的があるとすれば、それは私達が理解できるようなちっちゃな目的ではない。

そんな事を考える前に、生きている(or生かされている)事実をしっかりと受け止め、しっかりと生き

(or生かされ)抜くことが大事。

でも、残念ながら、死or死んで往く世界があるかないかによって、生きることの充実度は変わってきてしま

うのです。

人類の悲劇と上述したけど、死がわからないということは、生もわからないんだもん。

だから、もし「死が終わり」だとすれば、生きていることが全てとなってしまう。そうなれば、死がチラつ

く状況に陥った時、不安に覆われてしまうことになるのです。

でも、「死が終わり」でない世界があったとしたら、生きていることが全てではなくなる・・・