おはようございます。住職です。
3月9日のブログでは、一人称と二人称の例えで、日本人が「私」と「あなた」を置き換えてしまう傾向を説
明しましたが、その他にも日本文化の中には、自分の気持ちを直接表現しないで、自然現象に自分の気持ち
をのせて表現したりするのです。和歌や俳句がそれに当たります。
例えば、「遠山に日の当たりたる枯れ野かな」(口語訳・・・遠い連山に日が当たって、浮き出ており、近
景の枯れ野{さむざむとして寂しい感じ}は、それとの対象で物寂しい印象である)との俳句ですが、この
俳句をみてみると、自然の情景と共に自身の寂しい心情ものべていると受け取ることができます。
私的に解釈すれば、周りの人は繋がっていて、楽しそうにしているのに、それに対して私は一人寂しい!み
たいな意味にも受け取れますね。このような自身の心境を直接表現しないで、自然現象にのせて表現してし
まうわけです。つまり『花鳥風月』を通して、自然を通して自身の気持ちを表現するのです。
私が言いたいのは、このような表現形態をとり得る日本文化がある!ということをお伝えしたいわけです。
決して感情を生のままの主観性に於て表現してはいない、これが昔の日本人の自分を表現する形であっ
た!可能性があるということを解ってほしいのです。
私は残念ながら西欧文化にどっぷり浸かって慣れてしまっているので、小中学生の頃、このような自然の情
景を詠んでいる和歌や俳句を詠んで、意味がわからなかったものです。
全然美しいと思えなかったし、なんでこんな自然の様子だけが詠まれているのだろう?と訳がわからなかっ
たです。
今になって思えば、「自然の情景と歌い手の気持ちを重ねている歌なのか! なるほど!」と思います。
欧米文化に染まってしまうと、なんでもっと直接表現しないのだろう?と歯痒く感じてしまうのですね。
しかし、日本文化の中には、現在のような「自分」という独立した感覚というものはなく、もっと大きな枠
で「自分」を捉えていた可能性がある気がしてくるのです。
だからこそ、昔の日本では、今のような「個」を主張することがなかったのかもしれません。
そう考えると、日本文化の中には「奥ゆかしさ」「控えめ」「幽玄さ」のような美的感覚が培われてくる
ことにも納得がいくのです。
しかし残念ながら、今の私たちは、それを「美しい」と思えなくなってきた可能性はありますね(笑)
当時の感覚が無くなってしまっているのだと思います。
現在の私たちのように、「個」を直接的に表現するよりも、昔の日本では自然の中に私が居る!というよう
な「全体の一体感」的な感覚があって、それを表現する文化があったのだと思うのです。