日記

 「お寺が失ったもの」

おはようございます。住職です。

3月1日から連載してきましたが、ここで一旦纏めてみたいと思います。

中世日本から続く武家社会で培われた価値観(特に武士の)は、日本文化に強い影響力を与えてきました。

その価値観が大きく変化した時代こそ、明治時代と言えるのではないだろうか。と私は思っています。

武家社会では「お米」を支配する有力者(武士)こそが、社会的影響力を持つ時代であったと思われます。

それが明治時代に入ると、産業革命の波が押し寄せ、日本も開国せざるを得ず、欧米列強の文化が入ってく

ることとなります。

これまで「お米」が大きな価値を有していたのに、「お米」に変わって「資本力」が物を言う時代になって

いったのでしょう。

大きなパラダイムシフト(これまでの価値基準が大きく転換してしまうこと)が起こったのです。

武家社会の基盤となっていた「お米」の価値が揺らぎ、新たな「資本力」の価値が高まっていけば、当然社

会の常識も変化していきます。

武家社会での通念的価値観として求められていた「命がけの精神性」や「一体感」などは、欧米文化を基調

とした新たな社会には適応できず、形骸化していくこととなっていきます。

考えてみれば当然ですね。

キリスト教を土台としている欧米文化に対し、仏教を土台とした武家社会の日本文化ですから、考え方が違

うわけです。

因みに、これまで上述してきた武家社会での特徴ある価値観としてあげた「命がけの精神性」「一体感」

は、仏教の教えで言うならば、前者は「諸行無常」、後者は「縁起」として言うことができると私は思いま

す。

「諸行無常」も「縁起」も、仏教の代表的な教えです。

「諸行無常」とは、「常なるものは何もない」という意味です。

換言すれば、「いつ、どうなるかなんてわからない」ということです。

だから、一瞬一瞬が大事なのだ!ということです。

これって「常に命がけ」ということでしょう。

だからこそ「命がけの精神性」と通じているのです。

また、「縁起」とは、正式に言えば「因縁生起」(インエンショウキ)と言います。略して「縁起」。

意味は「全ての事物は、因と縁によって生まれ起きる」ということです。

換言すれば「独立してそれだけで存在するものはあり得ない」ということです。

だから、全てのものはお互いに関係し合っているのだ!ということです。

これって「全体が大事」と言っているのです。

だからこそ「一体感」に通じるわけです。

従って、私は武家社会で求められていた(武士の生きざま的な)価値観と、仏教の教えは非常にマッチして

いたと考えています。

だからこそ、仏教やお寺は、武士の生き様の価値観を裏付ける教えを有していた意味で、それなりに大事な

場所として扱われていたのだろうと思うのです。

しかし、明治期に欧米文化が入り込み、思想的にも大きなパラダイムシフトが起こった結果、武家社会での

価値観や、その背後にあった仏教の教えに視点が当たらなくなってしまったのです。

「お寺が失ったもの」は、社会に仏教の価値観を伝えられなくなった事実だと、私は思っています。