日記

「今後の西照寺の取り組み」

おはようございます。住職です。

連載は、今日で最後にしようと思います。

ここまで振り返ってみれば、3月1日から連載が始まったので、1ヶ月連続となりました。

自分で振り返ってみても、長いな!と驚きましたが、本当はまだ書き足りないくらいです。

しかし、最低限説明しておきたい部分は綴ったと思うので、今日でこの連載は終了にしようと思います。

そもそもこの連載を何故始めたのか?と言えば、昨年末、私は西照寺の今後の方向性を見定め、今後の活動

についても具体化することができました。(その詳細までは、今回は綴りません)

本当に情けないもので、ここに至るまで、足掛け9年かかりました。

私には才能がないので、これほどの時間がかかってしまったのです。本当に苦労しました。

ゴールが見えない中で、よくここまで頑張って続けてきたと、自分を褒めてあげたい気持ちです。

思い起こせば、大学生の頃「今後、お寺は不要となっていくのでは?」と漠然と危機感を抱いていました。

30歳を過ぎて西照寺に戻ると、今度は「お寺と経営」という問題に直面することとなりました。

どうすればいいのかわからず、35歳になった時「未来の住職塾」という非営利組織の経営について教えてく

れる塾に出あいました。そこで、組織の「理念やビジョン」「リーダーの大切さ」を教えてもらいました。

私は理念こそ組織の土台だ!と納得したのですが、しかし「西照寺の理念って何だ?」と。。。

そこから暗中模索が始まってしまったのです。

世間の流れや自分がすべき事、お寺とはそもそも何なのだ?など色々と情報を集めましたし、自分を深める

為に内省もしました。

青年会議所にも入って他の経営者と話ながら、知見を深めました。

ある時は大企業の社長を勤めた人が行っている経営塾にも参加しました。

(ただし、ここで断っておきたいことは、私はお金儲けがしたいわけではないのです。

もちろん、お金は大事です。

お金が不要と言っている訳でもありません。

お金がなければ、お寺も維持できないし、私達も生活ができなくなります。

だから、お金は大事だと考えています。お金は、成し遂げたいことを果たす為の手段です。

その意味で、お金は大事だと私は思っているのです。)

また、ある時期に鎌倉の師匠と出会うことで、美術や日本文化について門外漢ながらも、若干の知見を拡げ

ていただきました。

足掛け9年に亘って学び続けてきた事が、たまたま、ようやく、なぜかコロナで自宅自粛となった昨年、

集中して思索できる十分な時間を得たことで、ようやく「西照寺理念」として纏まりだしたのです。

西照寺の理念は「前に生れんものは後を導き、後に生れんひとは前を訪へ」です。

親鸞聖人が書かれた『教行信証』という書物の最後に引用される文言です。

思い起こせば、私が教義の勉強を始めてすぐに出会った感銘を受けた言葉でした。

まさか、20年かけて最終的にこの文言に辿りつくとは思ってもいませんでした。不思議なことです。

この理念を軸に、西照寺の今後の活動は「寺業」と「文化発信」の2つの方向性で取り組みを始めていくこ

ととなりそうです。

「寺業」とは、簡単に言えばお寺の理念を実現させていく為の経済活動を主とした取り組み。

ですから、とても大事な活動です。

「文化発信」は、今後、力強い日本人を作っていく為に、お寺が行わなければならない取り組みだと、私は

考えています。昨日のブログで綴った通りです。

しかし、この取り組みは、私はお寺であればどこでもできる(やるべき)取り組みだと思っています。

その中でも西照寺は、理念に沿った形での具体的取り組みを行っていこうと思っています。

この取り組みには、当然お金がかかります。

その為に、西照寺の「寺業」もしっかりと確立しないといけないわけです。

順番的には西照寺の「寺業」をしっかりと確立して、「文化発信」の活動を強めていきたいですね。

最後に、私がこれまで悩んできた、お寺って何をする場所なのだろう?何のためにお寺って存在してきた場

所なのだろう?との問いがありました。

現時点の私なりの結論は、お寺の本質は人類が考え及ぶ範囲を超えた「縁起」を、人類に伝える為のハブ。

その代表的な役割が儀式(読経)。儀式は論理を超えるものです。

しかし、これは時代と価値観の変化によって、上手く機能する時代とそうでない時代がありました。

現代は科学の台頭によって、科学力を使えば、人類は全てを解明できる!と思い上がってしまっています。

科学でも解明できないものがあることを認めたくない現代では、お寺の本質は上手く機能しません。

明治期以降、そちらの方向に向っていると思うのです。

だからこそ、お寺が儀式だけにのめり込んでいる状態は危険だと思えるのです。

ですから、本質的な役割である儀式はしっかりと残しながらも、儀式だけに頼らない新たな取り組みの有無

が、お寺が現代社会に存在できるかどうかを決定づけるものとなっていきそうだと、私は思っています。

そこで、西照寺は新たな取り組みを進めていこうと考えているのです。

「今後の西照寺の取り組み」” への1件のフィードバック

  1. 偶々ですが、小生、80数年間の人生を振り返り、分岐点となった人との縁を中心に年表を綴っていたところでした。年表には当時の世相を含めて数箇所の大きな分岐点(縁)が存在しますが、その一つ西照寺との縁の始まりは1996年(H8年)、父が他界した年でした。仏事のイロハも知らない小生を導いてくれたのは前住職でした。その後、2009年(H21年)の西照寺落慶法要の頃から副住職(現住職)やご門徒の仲間達との交流が深まり、いろいろなことを学んで来ました。老齢の身ですが、西照寺の理念に沿った活動に協力できればと思っています。

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