伝統文化と、その現状

投稿日: カテゴリー: 日記

おはようございます。住職です。

これまでの連載で綴ってきたように、現在の日本と武家社会当時の日本では、当然ながら価値観や雰囲気は

まるで違うはずです。

もちろん、今でも当時の文化(価値観など)を無意識的に受け継いでいる部分は細かく見ればあると思いま

すし、まるっきり変わってしまったとは考えていません。

しかし、社会の土台となっている基本的価値観が変わってしまったことは確かだと思います。

その証拠が、多くの伝統文化がその存立を巡って厳しい局面を迎えている現実です。

これら伝統文化は、武家社会であった当時は、おそらく社会の主流、換言すれば影響力を保持できていた分

野だったはずです。

現在まで残っている伝統文化で考えて見ると、その代表格は寺院だと思えます。

その他、茶道、華道、落語、歌舞伎、三味線、日本刀など、または地域にみられる伝統工芸品分野などな

ど。

これら代表的な分野を取り上げてみましたが、いずれも現代社会においては、その存立に危機感を覚えてい

る分野だと思われます。

武家社会当時では、特に寺院や茶道(特に侘び茶)、日本刀などは、武士に重んじられてきた分野です。

ここでの特徴は「精神性」に通じる分野であるということ。

「命がけ」という武士の生き様と関連性が深いが故に重んじられた分野であるとも思えます。

また、華道や落語などは、そもそもの源流にお寺が関わっている可能性が高い分野もあります。

例えば、華道は仏教伝来に際して、仏様に供花したことに始まると言われているし、落語の滑稽話の源泉

は、僧侶が庶民に説教する際に滑稽話を用いながら説教していたことに由来するなどと聞いたことがありま

す。

落語や歌舞伎のように、江戸時代に大衆向けに発展した日本文化も沢山あります。

これらは江戸時代が平和だった!ということの裏付けだろうと思います。

あまり争いもなく、平安だったので、大衆も「命がけ」の生活から、「楽しむ」ことへの余裕がでてきた時

代なのだろうと思います。

しかし、それでも帯刀していた時代ですから、「命がけの精神性」は保てていたのだろうと思われます。

「②一体性」⑤

投稿日: カテゴリー: 日記

おはようございます。住職です。

私などは面倒くさがりで、行列に並ぶのも嫌いなタイプです。

ですから、基本的に人込みも嫌いです。

それなので、例えば歌(人気歌手)のライブなどに行きたい!などと思ったことはありません。

DVDを観ればいい!と思っているくらいです。

しかし、DVDでは一体感は生まれません。

画面を通じては、無理なのです。

画面を通じては、こちらの熱狂が歌い手には届かないのです。

ですから、リアルのような一体感は生まれないのです。

リアルでなければならない部分は、「一体感」なのかもしれません。

武家社会の特徴でもあったであろう一体感は、今でも大事な価値観です。

ただし、大事だと思われる一体感ですが、現代と昔では、その質は違うかもしれません。

ここが非常に重要です。

昔通りのままの価値観を踏襲することなど、無理な話です。

時代が違うのですから。

私が言いたいのは、昔の日本が培ってきた文化的な特徴を、現代版として見直していく必要性なのです。

もちろん、昔の状況を想像し参考にして。

さて、コロナ禍によって私達の社会ではデジタル化が一気に進みました。

仕事もリモート。

正直、距離のある仕事場まで通勤するストレスから解放された現在、リモートの素晴らしさを手放したくあ

りません。

今後は、リモートも当たり前の社会になり、リアルとネットの使い分けが進展することでしょう。

しかし、間違った方向に行けば、本当はリアルでなければならない部分をネットに依存してしまうなど、結

局余計な問題を未来に作ってしまう可能性もあると思われます。

これではダメ!

西照寺の理念である「前に生まれんものは後を導き」という部分に違反します。だからダメ!

間違った方向にいかないように、しっかりと考えて責任を自覚することが大事だと思います。

私たちはリアルかネットか、どの基本軸を設定して判断していくべきなのか?を問われてくるのです。

そんな今だからこそ、私達は武家社会の中で培われていた一体感という文化を振り返り、現代版としてアレ

ンジして蘇らせるべきだと思うのです。

一体感を大事にしてきた日本文化には、世界と戦える武器があるはずです。

一体感を潜在的に知っているかもしれない私たちは、リアルとネットの棲み分けが、世界のどの国よりも効

果的にできそうな気がするのです。

リアルの重要性を解っているからこそ、逆にネットでよい部分だって解るはずです。

また、リアルかネットか、という部分において、一体感を知っている可能性がある日本人ならではの、新た

なサービスや製品開発も可能かもしれませんよね。

「②一体性」④

投稿日: カテゴリー: 日記

おはようございます。住職です。

以前私は、北大路欣也さんとプライベートでたまたま直接お会いして、お話をしたことがあります。

ちょうど、「華麗なる一族」というドラマがあった頃の話です。

その際に北大路さんが仰っていたことが今でも忘れられないわけです。

私との会話で「華麗なる一族」の話しになったのです。

私は「北大路さんの目力の気迫が凄かったですね!」と感想を述べながら、演者としての苦労話などを教え

てもらいました。

特に、演者として満足できる時はどのような時なのか?を訊ねたのです。

すると、北大路さんは舞台の話しを例にとって話してくださいました。

これがとても興味深かったわけです。

演者として、自分が身震いする瞬間があるのは、「一体感がなった時」であると言うのです。

これは、舞台でなければならない!と言われていました。

舞台では、「脚本」(監督)と「役者」と「観客」という別々の視点があります。

それら「全てが通じあえた瞬間」こそが、演者として身震いするほどの満足感を得られる瞬間があると仰っ

ていたのです。

そんな舞台は良い舞台だ!と仰ってくださいました。

つまり、自分(役者)だけがどれほど頑張って自身の役を演じていても、ダメだ!ということなのです。

脚本を役者の全員が心から理解し、監督と意思疎通がしっかりできていて、それが演者全員の心身を通して

表現される。

さらには観客が、そんな舞台を求めて観にきてくれていて、演者の方向に歩み寄ってくれる。

そして、それぞれの想いが合致する瞬間がでてくることがある。

会場全体が、その時だけ、皆が通じあうことができる瞬間がある!そのような時、演者は演じながら内心で

「ここで拍手! ここで盛り上がる」などと思っていることが、そのまま実現されてくる境地があるのだそ

うです。

そうなると、自分も全体の一部となって役者として酔ってしまうのだそうです。

そんな瞬間に出あうと、舞台や役者を辞められなくなるのだそうです。それが良い演技だそうです。

ですから、良い演技は、自分の力だけではどうにもならない。ということのようです。

そんな一体感を感じられるのは、直接のライブだけです。

画面を通じては、そのようなことはできないそうです。当然ですね。観客がいないのだから。

リアルでなければダメ!というのは、そこなのだと思いました。

こう考えていくと、欧米文化と全く違う質の違う文化が、日本にはあった可能性があるのです。

日本文化として育まれた感覚は、欧米人には真似できませんし、真似されたとしても、勝負したら負けませ

ん。

だからこそ、今後の日本人は、世界に勝負(技術やアイデアや経済など)にでなければなりませんから、そ

の時、武器として日本文化の特徴(核心)を持っていくべきだと思うのです。

欧米の土台で勝負したって勝てる訳がないのです。

日本の土台で勝負しなければならないのです。

しかし、誠に残念ながら、その日本の土台を明治期に手放してしまった可能性が高いので、今後はそこを意

識した取り組みこそが、今後の日本にとって貴重になるはずだと思っています。

「②一体性」③

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こんにちは 住職です。

今の私たちであれば、「私」と「自然」は違う物!つまり対立の構造で考えられていると思いますが、

昔の日本人は、もしかしたら「自然」と「私」は同質。一体というか、私が自然の一部として考えられて

いたかもしれません。「自然」と「私」は対立関係ではなく、協調関係みたいなことです。

「自然」の一部が「私」みたいな感覚だった可能性があると思えます。

つまり、現代人が抱いている感覚の「欧米的私」は、そもそも昔の日本にはなかったかもしれません。

昔の日本的な「私」とは、自然や周りの一部にしかすぎない。

むしろ、「自然の中の私」というような感覚。

つまり、「自然」と「私」とを個別に分けないのが日本文化であった可能性さえあり得ます。

(日本文学などを研究していけば、そこら辺の謎は少しわかってくるかもしれませんが)

そう考えると、今の私たちが普通に抱いている感覚、例えば「私」と「あなた」という個別的な感覚

(つまり対立的感覚)が、昔の日本では少し違っている。

極端に言えば、今の私たちが言う対立的構造が、全体的な一体的構造(協調的構造)と受け止められていた

可能性すらあり得ると思っています。

であるならば、一族の誰かが犯した罪の責任を一族の長がとる!という理屈も理解できてくるのです。

一族の誰かと長は「一体的」という感覚なのだからこそ、責任を取る!との感覚です。

今の感覚で言えば、一族の誰かが罪を犯したならば、長ではなく、当人が責任を取るべきだ!と考える方が

スッキリします。理由は個別主義だから。「一族の誰か」と「長」は違う人です。

しかし、昔の日本では感覚が違います。

「一族の誰か」と「長」は一体なのです。

もちろん、同一人物ではないのだけれど、一族という括りの中では一体なのです。

一体だからこそ、代表者が責任を取ることはおかしくないのです。

この感覚は現代でも何となく続いていますね。

例えば、どこかの家の成人の家族が、とても凶悪な社会的事件を起こしたとします。

本来、個別主義ということであれば、事件を起こした当事者が社会的制裁を受けますが、実態としては、そ

の家の家族の皆が奇異な目を見られたり、嫌がらせを受け、引っ越しをする!という事を良く耳にします。

これって、私たちの感覚でも当然だと思いますが、昔の日本的文化を、無意識的に受け継いでいる感覚なの

かもしれません。

「②一体性」②

投稿日: カテゴリー: 日記

おはようございます。住職です。

3月9日のブログでは、一人称と二人称の例えで、日本人が「私」と「あなた」を置き換えてしまう傾向を説

明しましたが、その他にも日本文化の中には、自分の気持ちを直接表現しないで、自然現象に自分の気持ち

をのせて表現したりするのです。和歌や俳句がそれに当たります。

例えば、「遠山に日の当たりたる枯れ野かな」(口語訳・・・遠い連山に日が当たって、浮き出ており、近

景の枯れ野{さむざむとして寂しい感じ}は、それとの対象で物寂しい印象である)との俳句ですが、この

俳句をみてみると、自然の情景と共に自身の寂しい心情ものべていると受け取ることができます。

私的に解釈すれば、周りの人は繋がっていて、楽しそうにしているのに、それに対して私は一人寂しい!み

たいな意味にも受け取れますね。このような自身の心境を直接表現しないで、自然現象にのせて表現してし

まうわけです。つまり『花鳥風月』を通して、自然を通して自身の気持ちを表現するのです。

私が言いたいのは、このような表現形態をとり得る日本文化がある!ということをお伝えしたいわけです。

決して感情を生のままの主観性に於て表現してはいない、これが昔の日本人の自分を表現する形であっ

た!可能性があるということを解ってほしいのです。

私は残念ながら西欧文化にどっぷり浸かって慣れてしまっているので、小中学生の頃、このような自然の情

景を詠んでいる和歌や俳句を詠んで、意味がわからなかったものです。

全然美しいと思えなかったし、なんでこんな自然の様子だけが詠まれているのだろう?と訳がわからなかっ

たです。

今になって思えば、「自然の情景と歌い手の気持ちを重ねている歌なのか! なるほど!」と思います。

欧米文化に染まってしまうと、なんでもっと直接表現しないのだろう?と歯痒く感じてしまうのですね。

しかし、日本文化の中には、現在のような「自分」という独立した感覚というものはなく、もっと大きな枠

で「自分」を捉えていた可能性がある気がしてくるのです。

だからこそ、昔の日本では、今のような「個」を主張することがなかったのかもしれません。

そう考えると、日本文化の中には「奥ゆかしさ」「控えめ」「幽玄さ」のような美的感覚が培われてくる

ことにも納得がいくのです。

しかし残念ながら、今の私たちは、それを「美しい」と思えなくなってきた可能性はありますね(笑)

当時の感覚が無くなってしまっているのだと思います。

現在の私たちのように、「個」を直接的に表現するよりも、昔の日本では自然の中に私が居る!というよう

な「全体の一体感」的な感覚があって、それを表現する文化があったのだと思うのです。

「②一体性」①

投稿日: カテゴリー: 日記

おはようございます。住職です。

今日からは、武家社会に根付いていたであろう「②一体性」の特徴について、綴ってみたいと思います。

これについては、2021年3月9日のブログにも綴りましたが、武家社会当時の日本人には、もしかしたら

「私」と「あなた」という感性的な境界線が、今ほど分離していなかった可能性があると私は思っていま

す。

それこそ、日本文化の特徴である「一体性」の影響だろうと思うのです。

時として、私達は現在の感覚で昔の常識も捉えようとしてしまいますが、これは危険です。

時代と共に、その常識や感覚は変化していることを意識しておくべきです。

そのような意味で今から綴る内容について簡単に解説しますと、現在の私たちの普通の感覚である「私」と

「あなた」という感覚。

これは互いに別人格として理解されている傾向が強いですね。当たり前のことです。

しかし、私はこの感覚が日本に根付いたのは、おそらく明治期以降に、欧米文化を取り入れたことによっ

て、強まったと考えているのです。

では、明治期以前、つまり武家社会だった当時はどうなのか?と言えば、「私」と「あなた」という感覚

が、現在ほど別々だとは考えられていなかった。

「私」と「あなた」の境界線が現在ほど分離していなかったと想像しているのです。

もっと、「私」と「あなた」は繋がっていた可能性が強いと思っているのです。

その事を、これから説明してみようと思っています。

「①命がけの精神性」③

投稿日: カテゴリー: 日記

おはようございます。住職です。

世界の大陸には、色々な人種が共存していて、今でも人種の違いで争いが起きています。

だからこそ、競い合って勝ち残ることが文化的に根付いているのです。

特にキリスト教の影響を受けた地域では、個別主義ですから、個人個人の競争が基本となっていくのだと思

います。

ある時代には、食料を巡っての競争もあったでしょう。

ある時代には、領土を巡っての競争もあったことでしょう。

現代の特徴の一つとして、経済を巡っての競争もあると思います。

これらの競争は、やはり「命がけ」な訳です。

「命がけ」だからこそ、シビアなのだと思います。

今でも日本人が海外旅行に行くと、スリや置き引きなどに気を付けるよう注意されることがありますね。

海外では、人の物を取ってまでも自分は生き抜く!などと考えているのかもしれません。競争だから。

逆に海外の人が日本に来ると「日本は安全で素晴らしい!」と決まり文句のように言います。

日本人は他人の物まで奪って生き抜こうとしていないのかもしれません。

これは、「命がけ」で生きていない。という考え方と、他人の立場で考える(一体性)文化によって競争が

苦手である。という考え方の両方できるように思います。

(しかし、昔の日本にも盗賊がいたと言われるし、命がかかれば、盗みも行うかもしれませんね。)

最近、日本の経済力は成長率も横ばいですし、今後はより減退することでしょう。

私は、どうしてこうなってしまったのかな!?と時々思うことがあります。

だって、一時期は経済大国として、世界中から羨望の眼差しを受けるほどの力を発揮していたのです。

それが、バブルが崩壊してから、真っ逆さま。

今では世界の国々に、どんどん追い抜かれていき、貧しくなっていく道が明確に見えてしまっています。

日本においては、今後の成長を期待できる環境になく、今後の衰退こそが現実的な雰囲気であるように思い

ます。

このドンヨリとした雰囲気。

ワクワクできる未来に向かって!というような雰囲気はなく、日本社会では「普通の生活」から脱落しない

ように!と、皆が必死に今より大変な状況にならないよう、ただ頑張っているだけのような雰囲気さえ漂っ

ているようです。まさに閉塞感ですよね。

私は、この理由の一つに「命がけの精神性」を日本人が失ってきていたことが関係しているのではないだ

ろうか!?と考えています。

所謂、「死」を隠し続けた結果、生きていることが前提となってしまった日本社会が出来上がったことで、

「命がけ」しなくて良くなってしまったのです。

これまでの日本は、それなりに働いていれば給与も人並みに貰えたし、飢え死になんてあり得ない。

もちろん、事故や病気で死ぬことはあるけれど、メディアは「死」を隠してしまいます。

「死」を隠し続けた結果、「生」もよくわからなくなってしまいました。

「生きている充実感」を感じづらく、毎日が単調に続いていく!かのような錯覚に陥る日常を過ごすことと

なってしまったのです。

「死」を忘れた「生者」と、「死」を意識した「生者」では、どちらが生の実感を得られると思いますか? 

「死」を意識した「生者」と、常に「死」への覚悟をもった「生者」では、どちらが充実した日々を過ごせ

ると思いますか? 

おそらく、現代の日本社会は【「死」を忘れた生者が沢山】

おそらく、日本と比べて海外は【「死」を意識した「生者」がいる可能性が大きい】 

おそらく、武家社会の日本(特に武士)は【常に「死」への覚悟をもった「生者」がいたのだと思います】

武家社会の中で育まれたであろう価値観の良い部分を、今からでも現代版としてリニューアルし、日本人が

取り戻すことができるのであれば、きっと今後の日本も面白くなっていくと思うのです。

「①命がけの精神性」②

投稿日: カテゴリー: 日記

おはようございます。住職です。

「命がけの精神性」は、現在の日本人の中ではどうでしょうか?

そもそも当時と大きく社会環境が変わりましたので、価値観も一変しているでしょう。

現代日本では、「死」を極力避けようとしている社会であると私は感じます。

「死」を見せない社会が現代日本社会ですね。

例えば、病院では死んだら入口からは出られません。

ひっそりと裏口から出されます。

現代日本人得意の「臭い物には蓋をしろ!」的な考え方が影響しているのかもしれません。

これでは、当時の武家社会の価値観とは真逆です。

当時は「生死」を直視していた文化だったはずです。

でも今の日本は「死」を隠す。

そこで、よく考えて欲しいのです。

実は「生死」はそもそも二つで一つ。セットものなのです。

そもそも生まれてこなければ、死ぬことはありません。

つまり、「生」があるから「死」があるわけです。

「死」があるということは、「生」がある訳なのです。

どちらか一つだけ!ということはあり得ないのです。

「死」を直視することは、「生」を直視することと繋がっているのです。

私は以前、こんな話を聞いたことがあります。

バイクで高速道路を200キロ近くでぶっ飛ばす人の心境です。

もちろんスピード違反だし、その行為は危険ですから、愚か者です。真似してはダメです。

私にはその行動が理解できませんでしたが、その人の心境を聞いたら、納得できてしまいました。

その心境とは、「バイクで飛ばせるだけ飛ばすと、死ぬかもしれないと危機感を覚えます。

死が迫ってきていてゾクゾクして「自分が生きている~」と実感できる瞬間なので、それを求めてやっ

てしまうのです」と言っているのです。

もちろん、真似してはダメです。

法律的にも違反ですし、道徳的にも他人により危険性を与える可能性が高くなるので、やめるべきです。

しかし、この人が言っている事には確かな事があります。

それは【「死」が迫ることで「生」を感じる】という事。

今の日本は「死」を隠すので、「生きている実感」が乏しくなっていくのです。

「何となく生きてる」「惰性的な生き方」「変化のない日々」など、そもそも「生きている実感」を感じづ

らい社会が、現代の日本社会に蔓延している可能性があると思います。

そんな社会で、さらに少子高齢化によって経済的にも疲弊してきていて・・・

「夢」も「希望」も「生きている実感さえ乏しい社会」

日本人として、また日本に住んでいる国民として、言いたくないですが、全然魅力のない社会ですよね。

確かに平均寿命は世界でも圧倒的に長いかもしれません。

しかし、長く生きられることが、果たして良い人生なのでしょうか? 

もちろん、なるべく健康で長く生きていたいという欲望はあります。

しかし、私の希望を言えば、夢などをもって活き活きと長生きしたい!と思う方が強いですね。

その土台となるはずの「死」の直視を、現代日本社会では放棄しているのです。

簡単に言えば、「命がけ」で生きれない。そんな現状であろうと思います。

世界の人は、今も「命がけ」で生きている可能性があって、そんな人達相手に、今後はビジネスをやってい

く!と言っても、この状態では通じないかもしれません。

私たち日本人は、【「命がけ」で生きる】の先にある【命がけの精神性】まで、生き方の質を高められる文

化の中の居ながらも、遥か前のステップで留まってしまっていると思えます。

「①命がけの精神性」①

投稿日: カテゴリー: 日記

おはようございます。住職です。

①の特徴として、私は一番大事だろうと思っているものに、武家社会の中で育まれた価値観「命がけの精神

性」があります。

「命がけで生き抜く」という価値観であれば、もはや日本人だけでなく、世界の人類共通でしょう。

しかし、「命がけの精神性」との意味であれば、特に武家社会の中で日本人が育んできた特徴であると思う

のです。

どのような部分が特徴的かと言えば、例えば「切腹」です。

「切腹」は「不始末が生じた場合にその責任をみずから判断し、自分自身で処置する覚悟を示すことで、自

身のみならず一族の名誉を保つという社会的意味」(ウィキペディア参照)と言われています。

「切腹」は世界でも「ハラキリ」などとして伝わっているので、武家社会における日本文化独特の価値観な

のでしょう。

ここで重要なことが、ウィキペディアの説明引用箇所にもある「覚悟」と「一族の名誉を保つ」との2つの

ポイントです。

特に「一族の名誉を保つ」との価値観は、続く②の武家社会で育まれた日本文化の特徴である「一体性」と

関連が深いですから、説明は後日に譲りますが、武家社会の価値観では、一族の為にも「切腹」して代表者

が責任を取る「覚悟」を求められた時代なのです。

一族の為に「死ねる」文化、換言すれば自己犠牲の精神性が感じられると思います。

そんな時代では、いつでも「死」を覚悟して生きていたのだと思うのです。

武士であれば、「元服」(当時の成人と見なされる通過儀礼)を終えれば、常にこの「覚悟」を求められた

のだろうと思うのです。

ですから、日常生活において、「命がけで生き」ていたのだと思うのです。

この精神性こそが「命がけの精神性」という意味です。

世界の人々も、自分が生き抜く為には「命がけ」で戦ってきたと思います。

敵から身を守る為、あるいは食料を調達する為等、色々と「命がけ」で競争してきたのだと思います。

そこの部分は万国共通。しかし、戦いが終われば、気を抜くことができたのだと思います。

常に緊張感をもって生きていたわけではないのかもしれません。

しかし、武家社会の当時は違うかもしれません。

自分が不始末を起さなくても、一族が不始末を起すことだってあり得ます。

一族の不始末は、一族の長が責任を求められる社会的価値観が当時です。

もちろん素地として自己犠牲の精神もあったのだと思います。こうなると、「気を抜」きづらい環境です。

いつでもピリピリ、気が張っている。疲れそうですね。

現代人の私からすれば、「何て生きづらい社会だろうと!?」と思ってしまいます。

だからこそ、当時の人は、一瞬一瞬の瞬間を楽しむ日本文化を芽生えさせたのではないかとも思うのです。

例えば、日本人は昔から桜が好きで、花見を楽しんでいたそうですが、桜は咲いてから散る迄短期間です。

当時の日本人は、桜が咲いて散りゆく様を、人の命の儚さと重ねていたのでしょう。

特に桜の花びらが舞い散る花吹雪を日本人は好みます。

もしかしたら、現代の日本人にもその感覚は通じるものがあるのかもしれません。

しかし、海外では桜が散りゆく様子を美しいと感じる文化は然程ないのでは!?と思います。

 そう考えると、武家社会での日本人は散り際を大事にする文化でもあったのでしょう。

「切腹」も、その潔さが評価されたのだろうと思えますね。

 また花見の他にも、瞬間を楽しむ文化として、「侘茶(わびちゃ)」もあるのではなかろうかと思いま

す。

私は茶道の知見はありませんが、千利休が大成した侘茶には、禅宗の影響が強いと聞きます。

侘茶の一服を楽しむ精神性の中には、きっと一服をいただく瞬間に「この世の全てが内包されている」と理

解できる境地があって、それを楽しむことこそ、至福の時であったのだろうと思うのです。

おそらく、そのような感覚に近い部分が、侘茶の精神性にはあったのだろうと、素人ながらに想像します。

もちろんそこには、仏教の諸行無常の教えより、瞬間瞬間を重んじる教えという裏付けもあったのかもしれ

ません。

だからこそ、武家社会の価値観と仏教は相性が良かったのだとも思えます。

当時の武士の生き様を裏付ける教えとして仏教があったことは事実であろうと思われるのです。

日本文化の特徴④

投稿日: カテゴリー: 日記

おはようございます。住職です。

では、日本文化の特徴とは具体的に説明するとどのようなものなのか? 

それこそ、明治期の近代化に伴う一連の流れで手放してしまったであろう、武家社会に根付いていた

「①命がけで生きる精神性」、「②一体性」、①と②の特徴を踏まえて生まれた「③日本的美意識」などが

あると私は思っています。

その中で、私が考える最も重要な特徴こそが、常に「命がけ」で生きる精神性だと思っています。

次に、弱い者同士が肩を寄せ集めて生きていく!という「一体性」。換言すれば集団性。

そこから派生する連動性も得意分野かもしれません。さらに、それらから派生した文化的な「美意識」。

ここにも武家社会が育んできた日本的特徴をもった価値観があるのだと私は考えています。

明日からのブログを通じて、これらの特徴を具体的に綴っていきたいと思います。