日記

お盆 

こんにちは 住職です。

昨日は西照寺盂蘭盆会法要の日でしたが、朝から雨が本降りで、良かったのか悪かったのかわかりませんが

お参りの皆様の数も少なかったと思います。

法要にお申込み頂きました、皆様には感染防止対策として、人数制限をお願いし、法要に臨んでいただきま

した。さらに、本来はご法話をさせていただく所を、昨年から控えさせていただいています。

誠に残念ではあるのですが、答えが見えないコロナ感染者減少に向けた、せめてもの取り組みなのです。

どれだけ感染防止対策をやっても、感染者が出るときは出るだろうし、出ないときはでないのでしょう。

ウイルスは目に見えませんから、簡単ではありません。無症状者でもウイルスをばら撒くと聞くし、

だとすれば、発熱チェックをすり抜けてしまうし、正直どうしようもありません。

できる事は、感覚をあける事と、飛沫が飛ばないようマスクを着用し、しゃべる機会を減らすこと。換気。

もちろん、消毒。その位なんです。

かといって、年中行事は続けていきたいし、全く難しい。こんな状況がいつまで続くのか!?

さすがの私もそろそろ疲れてきました。少し安心した日々を過ごしたいものですね。

昨日の新盆法要では、深い悲しみの中、お参りくださいました。

その方々に、仏教のお話も伝えられないなんて、やはりコロナは酷いです。

ということで、本来はブログなどに綴るべきではありませんが、ちょっとだけ綴っておきます。

昨年亡くなった大切な方は、もちろんまだまだ生きていたかったはずです。間違いありません。

しかし、生まれてきてしまった存在として、残念だし、嫌なのですが、死んでいかねばならない

のが、私達の世界です。年齢によって、亡くなる方に違いはあるけど、皆共通するのは

死にたくはない!ということです。でも、死んでいかねばらない。これが嫌で仕方ありません。

私も死ぬ存在なのです。嫌です。死にたくはないです。

なんで死にたくないし、ご遺族からすれば、死んで欲しくないはないのでしょうか?

そこを深く問われたのが、仏教の教えを説かれたお釈迦様なのです。

普通、私達はそんな苦しみに正対して目を向けたくはありません。

悲しい現実から、如何に逃れられるか?を考えてしまいます。

悲しみに正対しようと思ったとたん、大きな悲しみに襲われてしまいます。

大きな悲しみに襲われてしまうことで、感情的になってしまい、冷静に物事を考えることなどできなくなっ

てしまいます。

もっとも、仮に正対できたとして、何でこんなに苦しいのだろう?と考えてみても、理由より先に、苦しい

ものは苦しいんだ!との現実ばかりが目立ってきてしまいそうです。

その点において、お釈迦様が残してくださった教えは、私達にとって、本当に有難いものなのです。

私達にできないことを、すでにお釈迦様がやってくださり、私達に教えとして残してくださったからです。

お釈迦様は、「苦しは「私の思い通りにいかない現実」にであってしまった時」に生まれると見抜いてくだ

さったのです。

私達は、人間界で生きている以上、どうしても、「自分の思い通りにしたい」との欲求と付き合っていかね

ばなりません。死ぬまで!です。

しかし、亡くなる瞬間まで、死にたくはないですから苦しいのですが、亡くなったらすぐに、その思い通り

にしたいと、これまでずっと付き合ってきた欲望の心と、お別れすることができるのだそうです。

仏様の世界に往くとは、いよいよ人間として「思い通りにしたい」と心の奥底にこびり付いていた欲望から

解き放たれ、本当の意味で、安心できる世界、もう苦しむ必要のない世界に往けるということのようです。

ご遺族である皆様(私も)は、まだ人間世界を生きていますので、欲望があります。だから苦しいし、悲し

い。当然なのです。しかし、仏様の世界に往かれた皆様方は、すでに苦しみのない世界に参られていて、

そちらから、私達の世界をご心配してくださっているようです。

そのご心配とは、私が深い苦しみの世界で生きていることです。

仏様は、私たちに、苦しみの深まる生き方をしない方が良いよ! 苦しみが深まらない生活を遂げてきてね

。やがては仏様の世界で「あなたを待っていますよ。ゆっくりおいで」と見まもってくださっている

そうです。ですから、私達も仏様に常に見まもられているんだ!という気持で、ご心配をかけない生き方を

遂げる必要があるのです。苦しい時や悲しい時があって当然です。いいんです。

泣いてもいいし、当たり散らす私であることと思います。しかし、同時に、仏様に見まもられている!とい

うことも、感じていただければと思います。