日記

本質を見失った国葬

こんにちは 住職です。

明日が安倍元首相の国葬なのですね。TVでは国葬反対など、世間の反応が報じられていました。

私は以前のブログで所感を綴ったのですが、国葬前日のこの雰囲気に対し、改めて宗教者として

所感を綴ってみようと思います。

そもそも、明日の国葬に対して、安倍元首相の死を悼む雰囲気では無くなってしまっていることに大きな

原因があると思います。

安倍元首相が銃撃され亡くなってから、反社会的団体旧統一教会との関係性が明らかになりました。

その後、自民党の多くの議員が、選挙運動を主軸に旧統一教会との関係性を深めていったことが明るみにで

ました。世間では、これが大きな問題となって、安倍元首相の死を悼む雰囲気は吹っ飛んでしまいました。

故人は生前、世間が知らないことを良いことに、こんな事をしていたのか!と、もはや元首相の生前の倫理

観や道徳観を失った行為を知って、さらにそれを自民党各議員にまで影響力を行使し、泥沼にはめてしまっ

たであろう、その生き方に不満と怒りを覚えて、多くの国民が怒っているわけなのです。

そもそも、国葬というのは、葬儀の事でしょう。

葬儀とは、葬送儀礼の略語です。葬とは、草の上に死体を置いてさらに草をかける。そこから葬という

漢字ができています。葬の字を見てください。一番下の升みたいな部分が、草を表しています。

その上に、死を置くのです。つまり、死体のことです。そして、その上に草冠があります。

こうやって、葬という字は、昔の死体の処理の仕方を表す語だったわけです。

しかし、葬だけだと、単なる死体処理みたいな感じになっちゃいます。

人間には、それができないのです。それが人間の自然な心なのですね。

人間は、単に死体を処理することができない。死体処理ではなく、丁重な行為をもって死体を弔う事を

始めたのです。ここに死体処理から「死を弔う」という人間ならではの行為が生まれたのです。

この弔う仕方こそが、儀式なのです。人類が昔から伝わってきた死を弔う行儀に従って、決まった行為に

則って死を弔う行為こそが、儀式なのです。

さらに、この儀式に宗教が結びついて宗教儀礼が出来上がってきました。

なぜ宗教が結びついたかといえば、死後についても触れ得るものこそが宗教が担っている領域だったからで

す。故人の死を弔う事と同時に、死後の安寧を願い、宗教儀礼が葬儀に欠かせなくなったわけです。

先日、エリザベス女王が国葬とされた際、キリスト教の儀式で行われました。イギリスの国教はキリスト教

だからです。だから国葬は必然的にキリスト教となるのです。国民は誰も疑問視しません。

この度の日本はどうでしょう? 以前は吉田茂元首相が国葬となったと言われますが、そもそも日本国に

国教はないのでしょう?政教分離なのですから。 

人類が葬儀を始めたのは、宗教の誕生よりも前です。ですから、国葬と言ったからといって、必ず宗教儀礼

である必要はないのですが、しかし、葬儀という以上、どうしても宗教性を帯びてくるものだと私は思って

います。しかし、日本は国が宗教を持っていない。神道でもないのです。だから、国葬といっても宗教性を

打ち出せないのですね。ここに現代としての大きな矛盾を感じざるを得ないのです。

そもそも、明治時代、唯物論者(全ての存在する物は、物としてあるだけで、霊魂などはない!との考え

方)であった中江兆民という方がいました。有力者です。

この人が、当時は亡くなったら葬儀が当然という時代に、私は無宗教なのだから、私が死んでも葬儀は不要

と言い出しました。中江兆民は国民からもよく知られた人で、政府に関係が深かった人物でありました。

そこで、実際に兆民が亡くなった時、国民はどうなるのか?と注目していました。

親交が深かった板垣退助が、困ったあげく、葬儀は兆民の意思に反するからできない。しかし、何もしない

というわけにもいかない!というわけで、告別式が生み出されたわけです。

告別式とは、「別れを告げる式」なので、葬儀ではない!との理屈です。

私から言わせれば、屁理屈みたなものに感じてしまいますが、取り敢えず、告別式が生み出されました。

別れを告げる式なので、式辞などを読んで、故人の生前の功績などを讃えることに主眼が置かれていきまし

た。死後の安寧などは介在しません。

このような本質を確認していけば、日本国が取るべき行動は見えてくるはずなのです。

私から言わせれば、国葬ではなく「国別式」でよいはずなのです。

国葬と言って、参列する諸外国の方々は、宗教儀礼の無い国葬をどのように受け止めるのでしょう?

まったく恥ずかしい限りです。

今の日本は、本質を確認しようともせず、形だけ立派にみえればいい!とのような姿勢で見せかけ国家

となってしまいました。

私も言いたくはないのですが、その姿勢は、当の安倍元首相ご本人の生前の生き様に反映されていたことが

この度の件で、国民にバレてしまったのだと思うのです。

その為、ここまで国民が騒いでいるのだと思えてなりません。

本来ならば、亡くなっていかれた方々に対して、敬意をもってお見送り、さらには、死後の安寧を願う弔問

行為は尊い姿勢だと思うのです。人間として、大切なものだと思うのです。

しかし、今の日本は、偽物国家。本質を確認もせず、あさはかに決断し、見せかけ上は立派な事を言って、

中身は何もない。現職首相は、「敬意と弔意でもって国葬を・・・」

「諸外国の弔問者にはしっかりとした礼節をもって・・・」「最後まで、国民には丁寧な説明を・・・」

いずれも言葉だけ。 こんな事を平然と進められては悲しくなります。

一国の首相であれば、一流の専門家のアドバイスが仰げるでしょうし、本質を確認する為の術だって

人脈や何やらでどうにでもなるように思うのです。そこを軽視し、自身の想いか、他の方からのアドバイス

かわかりませんが、軽々に決断してしまった結果が、今回の事態を招いた本質だったのかもしれませんね。

今回の件は、本質を把握してしっかりと事にあたらないと、とんでもない方向に行ってしまうという好例だ

と思わされました。

私も偉そうなことを言える立場ではありません。ただし、本質を大切にしていかないと、危険な事が起こる

んだなと思うのと同時に、このままの日本だと非常に危ない。二流国家、三流国家は目前となっています。

本当に大事な物事をしっかりと把握するような姿勢が、この国から無くなってしまっているような気がして

非常にこの国の未来が気になってしまうのです。

日本は歴史があって、素晴らしい文化をもっていて、力強いはず。世界をリードできるだけの潜在力は

持っているはずなのに。

そこに上手に、国の未来を決めていくトップの方々が導いていく責任があるはずなのに。

それなのに、反社会勢力に、選挙で力になってくれるから!みたいな自己の当選欲に負けてしまい、

挙句、国葬などの雰囲気では無くなってしまい、諸外国からみれば、非常に恥にしか映らないでしょう。

安倍元首相が外交で大きな成果をあげられてきた!と言うけれど、その功績も最後に傷つける結果に

なってしまっているような気がして、非常に何と言っていいのか、わかりません。

悲しい事ですね。