おはようございます。住職です。
私は、昨年の10月に埼玉県東松山市に所在する浄土真宗本願寺派西照寺の代表役員に就任した網代豊和と申
します。
今日(2026年9月10日)は、そんな私にとって、特別な日。
今夜、ついに50歳を迎えます。この世界に誕生し、半世紀を生きたこととなるのです。驚きです。
私は9月10日の21時台に生まれたと聞いておりますので、今夜21時を過ぎれば、50年経過となります。
50年間、有難い事にこの世界で、網代豊和という一時的な生命体という仮の姿で、元気に暮らしてきました
。この間、様々な命を頂戴し、生命を長らえてきました。そして、あまり意識してきませんでしたが、空気
を汚し、環境を破壊し、身勝手な生き方をしてきたと振り返ります。現代社会を生きるということは、自分
で意識していなくとも、便利さを追求するあまり、大きな犠牲の上に私たちの生活が成り立っているのです
。そんな社会で50年も生きてきました。私のこれまでの生活は、私の全く気付かない所で、大きな犠牲や
もはや人間の頭では想像すらできない様々な支えによって成立してきたのです。
仏教は、それを気づかせてくれる教え。しかし、同時にその事に気づかせてはくれますが、私と言う個体の
限界も手伝って、頭で理解しようにも、無限に広がっているお陰様を想像することすら追いつきません。
だから、大事な事実に気づかせてはもらいながらも、個体の限界によって、大事なことに霧がかってしまっ
ているようです。常に霧がかかってしまった状態なので、しっかり見ようとしないと、つまり意識をしない
と、見失うのです。私も、日々の生活に追われる中で、本当に大切なことに目線がなかなか向かず、
都合の良い時だけ意識を向けるという生き方をしてきたように思えます。
これが個体としての、つまり有限性の愚かさなのだと思わされます。
今朝も、50歳という節目を迎えるにあたって、やはり意識的に、大切なことを見ようとするのです。
でも、それが過ぎてしまえば、大切なことに再び霧がかかり、見ようとさえしません。
これは、ある意味で問題ですね。非常に表面的な部分に留まろうとする自分がいるわけです。
もっと深い部分にいこうと思わない。何故なのだろう?
現実社会に飲み込まれているからなのだろうか? それとも、深入りしないように、無意識なレベルで
そうしているのだろうか? 今朝は、ふと、この問題について視点があたりました。
これは自分の中で抱えていこうと思います。非常に大事で深刻な問題です。
50歳を迎える今日、様々なお陰様に感謝し、同時に有限性の愚かな自分を見直す日にしようと
思います。
因みに、残念ながら今日は私にとって、感傷的な日になっているのですが、築地本願寺において
大事な会議があるので、出勤しなくてはいけません。
今から準備して行ってこようと思います。
