お墓って何だろう?(7)【近世のお墓事情】

江戸時代になると、お墓事情は都市部(江戸や大坂)を中心に2つのタイプに別れてきます。特に都が江戸(現在の東京都)に移されたことで、狭い敷地に多くの人口を抱えることとなりました。

▼お墓の起源

従って、江戸においては墓地空間が狭小という問題を抱えてしまったのです。そこで、お寺に墓地が纏められてくることとなります。さらに、お寺でも敷地には限りがある為、必然的に当時の墓地は2つのタイプに大別されることとなりました。

1つ目が、合同で複数人が埋葬され、誰がどこに葬られているのかさえ判らないタイプの墓地。

この墓地に埋葬された人たちは、下層民と言われる①「経済的困窮者」や②「家が絶えてしまう可能性の高い層」の人達であったと言われています。

「経済的困窮者」とは、単身日雇い層で、家族と縁は切れてしまい、旦那寺(所属寺)も持っていない層の事です。

「家が絶えてしまう可能性の高い層」とは、家族もいて旦那寺(所属寺)もありながらも、男子が不在など、近い将来家が絶えてしまう層の事です。

因みに、江戸時代はキリスト教を禁止すべく、民衆をお寺に所属させ戸籍を管理させる制度「寺受け制度」があったので、民衆はお寺に所属していることが当然だったのです。お寺に所属することで、いわゆる身分保障がなされていたのです。

「経済的困窮者」は、旦那寺も持っていないので、死後は日雇いの仕事を斡旋していた人宿(ひとやど)などが、その遺体を引き取って、人宿らの旦那寺にお願いし、葬られることとなったようです。

また、「家が絶えてしまう可能性の高い層」は、時間が経つと、お墓が無縁化して供養されなくなるので、一度は個別の墓地に埋葬されながらも、無縁化すると掘り起こされ他の遺骨と一つ同じ場所に改葬されることとなります。

江戸時代の日本は、著しい人口増加に伴って、特に江戸などの都市部では、空間的問題が発生し、墓地確保が極めて厳しい現実となり、経済的な側面とお墓は強く結びつくこととなりました。特に、埋葬に広い空間が必要となる土葬が多かったことも、墓地が経済問題化する要因にもなったのです。

従って2つ目は、経済的に余裕があり、先祖供養も続ける各家に分かれるタイプの墓地。

このお墓に埋葬される人は、個別に埋葬され、当然ながら埋葬場所も判るように墓石も設置されることとなります。いわゆる、現在の私たちが想像できるような形式のお墓となっていくのです。

一般民衆の間でお墓に墓石を建てることが珍しくなくなるのが、近世のお墓事情でした。

▼四十九日の登場

さらに、近世から各家でお墓を建てるようになったことで、亡くなった人がでた場合、死後四十九日までの七日毎(仏教で中陰と言われ、四十九日に至るまでの間、七日毎に死者は不安定な世界を漂うとの考え方があり、きちんと導く為の法要を勤める風習が盛んとなった)に仏式法要を行ったり、年忌法要を行ったり、彼岸にお寺にお参りしたり、お墓参りが盛んとなっていきました。

Author: YS
よりよい人生の送り方を、エンディングを通して探ってゆきます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です