明治維新によって、江戸幕府は討幕され、天皇を中心とする新たな国づくりが始まったのが明治時代です。
いわゆる、明治政府による神仏分離令(神道と仏教を完全に切り離すという政府からの命令・・・明治以前はお寺と神社は同じ敷地内に共存していた。さらに全体的に寺院の方に力があった)が出され、江戸時代「寺受け制度」として民衆の戸籍管理を行っていたお寺も、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)(=お寺、仏像やお経などを破棄し、仏教を壊すという世間の風潮)の流れによって弱体化していきます。
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▼お墓がお寺から政府管轄へ
この流れによって、お墓のあり方にも変化がでてくることとなります。理由は多くのお墓がお寺にあったからです。
明治政府が行ったお寺(当時は、お墓や火葬の場となっていた)への政策によって、お墓のあり方は大きな特徴づけがなされていきます。
それはお墓が公衆衛生の観点で考えられるようになったことです。これについては後の項目【火葬場について】で紹介します。
明治政府は、明治6年に火葬を禁止します。と同時に、当時の東京府内におけるお寺墓地での土葬埋葬も禁止にするのです。表面上の理由は、都市計画の観点から、遺体の埋葬による悪臭などがあげられました。
そこで、東京では郊外の墓地にしか埋葬ができなくなってしまうのです。しかし、当然ながら墓地が足りずに問題化し、政府は結局火葬禁止を2年で撤回することになるのですが、土葬での埋葬の場合は郊外の墓地を利用するルールは守られました。
近代の墓地は、これまで多様であった墓地のあり方に対し、政府の規制がかけられていく中で、徐々に墓地の概念形成が統一されてくる時代だったのです。
次回から、あらためて火葬のお話です。