こんにちは 住職です。
今の私たちであれば、「私」と「自然」は違う物!つまり対立の構造で考えられていると思いますが、
昔の日本人は、もしかしたら「自然」と「私」は同質。一体というか、私が自然の一部として考えられて
いたかもしれません。「自然」と「私」は対立関係ではなく、協調関係みたいなことです。
「自然」の一部が「私」みたいな感覚だった可能性があると思えます。
つまり、現代人が抱いている感覚の「欧米的私」は、そもそも昔の日本にはなかったかもしれません。
昔の日本的な「私」とは、自然や周りの一部にしかすぎない。
むしろ、「自然の中の私」というような感覚。
つまり、「自然」と「私」とを個別に分けないのが日本文化であった可能性さえあり得ます。
(日本文学などを研究していけば、そこら辺の謎は少しわかってくるかもしれませんが)
そう考えると、今の私たちが普通に抱いている感覚、例えば「私」と「あなた」という個別的な感覚
(つまり対立的感覚)が、昔の日本では少し違っている。
極端に言えば、今の私たちが言う対立的構造が、全体的な一体的構造(協調的構造)と受け止められていた
可能性すらあり得ると思っています。
であるならば、一族の誰かが犯した罪の責任を一族の長がとる!という理屈も理解できてくるのです。
一族の誰かと長は「一体的」という感覚なのだからこそ、責任を取る!との感覚です。
今の感覚で言えば、一族の誰かが罪を犯したならば、長ではなく、当人が責任を取るべきだ!と考える方が
スッキリします。理由は個別主義だから。「一族の誰か」と「長」は違う人です。
しかし、昔の日本では感覚が違います。
「一族の誰か」と「長」は一体なのです。
もちろん、同一人物ではないのだけれど、一族という括りの中では一体なのです。
一体だからこそ、代表者が責任を取ることはおかしくないのです。
この感覚は現代でも何となく続いていますね。
例えば、どこかの家の成人の家族が、とても凶悪な社会的事件を起こしたとします。
本来、個別主義ということであれば、事件を起こした当事者が社会的制裁を受けますが、実態としては、そ
の家の家族の皆が奇異な目を見られたり、嫌がらせを受け、引っ越しをする!という事を良く耳にします。
これって、私たちの感覚でも当然だと思いますが、昔の日本的文化を、無意識的に受け継いでいる感覚なの
かもしれません。