めずらしく

投稿日: カテゴリー: 日記

こんにちは 住職です。

ようやく帰宅してきました。現在15時過ぎ。

朝昼と食事がとれなかったので、今、食べています。

コロナ前は、こんな感じも多かったですが、コロナ以降は食事もできないほど走り回ることもなくなった

気がしますので、久々な感じです。

今日は、この後16時から、ZOOMで取材(ある雑誌で西照寺のレンタル墓の記事を書いてくださるそう

で)を受けることになってるのです。だから、この1時間が食事タイムなのです。これを逃すと、晩御飯。

晩御飯でドカ食いになるのを避けるため、ここで普通に食事をとるのです(笑)

その後、夕食を終えたら、19時半から、今度は後輩とZOOM。

仕事のことや、人生についての話し合い? をするのです。

いずれも、仕事ではないけれど、大事なことなのでやってみるのです。

因みに、私は全然仕事とは関係ないけれど、後輩や仕事場の同僚の相談などにのるのです。

業務ではないんだけど、こんな事をやるだけで、仕事がスムーズに運ぶのです。

もっとも、仕事をスムーズに運ばせる為にやっているのではありません。

世間でいうマネジメント!などと毛頭思っておりません。

そんなことではなく、一生懸命仕事をして、大変そうな顔を見たり、弱っている雰囲気を察知すると

どうした!?と思ってしまうのです。別にたいした助言などできないし、どうにもならないんだけど、

話を聞いてみるだけで、相手の顔が少しだけ穏やかになります。

なんだか、せっかく仕事を一緒にしているのに、浮かない顔されたりしているのを見ると、

どうした?大丈夫か?とお節介がでるのですね(笑)

今を大事に

投稿日: カテゴリー: 日記

こんにちは 住職です。

オミクロンの感染が凄いですね。私も、デルタ株の時ほど不安な気持ちはなく、むしろ重症化しなさそう

だし、これまで通りの生活を維持していこうと考えています。

もちろん、積極的な外出は避け、必要最低限にとどめているつもりです。ほとんど、自坊に居ます。

オミクロンも、来月中旬くらいにピークを過ぎないかなぁ ピークアウトになるんじゃないかなぁ

と、私の希望的観測をもっているのですが、どうなるでしょう?

オミクロンを抜ければ、きっと、もうないだろう!と思っているのですが、それも甘い考えなのか?

さすがに、コロナで丸2年も自粛生活が続くと疲れてきますね。

もっとも、コロナを抜けた先も、きっと大きな問題もやってきそうですが、どうなることやら。

さてさて、こんな時こそ、あまり先の事を考えて心配になるよりも、今を生きることを重視して

一歩一歩確実に、間違いなく、歩んでいくことが大事だと自分に言い聞かせています。

今日も、一生懸命生きようと思います!

通信制大学

投稿日: カテゴリー: 日記

こんにちは 住職です。

最近、少し動いているせいなのか、身体に疲れがでているような、肺に違和感があるかのような。

ということで、今朝の運動は、途中で切り上げました。咳喘息を再発したくないし。

今日は、土曜日なのですが、めずらしく?なのか、最近ポツポツとなのか、ご法事がありませんので、

今日は自分の時間にあてようと思っています。

予定では、明日から再度忙しなくなり、落ち着くのが2月4日頃です。

それ以降は、急激に自分の時間が取れる日が続きます(嬉)

お寺って、2月は暇なのですね。私の父も、2月は例年ご法事も少ないから。と話していましたし、

先日、他宗派のお坊さんと話した時も、2月は寒いからご法事される方もすくないですよ!と言ってました

。そんなことあるんだ(驚)

私は、そんな事を気にしたことなかったので、思い返してみれば、2月は確かに例年ご法事少ない傾向だっ

たような気もします。寒いのが原因なの?(笑)と思ってしまいますが、傾向としては、多くはないのです

ただし、築地本願寺の業務では、年度が切り替わる前になるので、大事な会議などが続きます。

次年度の予算や計画などを決議させていかなければいけないからです。

そっちの方では気を引き締める必要もあるのですが、ようやく私も2月に纏まった自分の時間を確保できそ

うなのです。

実は今、秘密なのですが、通信制大学を受けてみようかな!と、若干考え始めています。

コロナによって、通信制の学びって、自宅でも可能だとわかり、ちょっとだけ考え始めているのです。

資料を取り寄せたのですが、いけそうだな!とか思っています。

やるかやらないかは、2月にじっくり考えようと思っているのです。

住職もショックを受ける

投稿日: カテゴリー: 日記

おはようございます。住職です。

今日は朝から少しショックを受けました。

仲間内の勉強会があって、そこで良い意味なのですが、逆に言えば、私だけ異質!みたいなことが判明した

のです。まぁ、自分の強みだと思えばいいことなのですが。

(ご指摘賜ったのは、私の発想のようです。考え方が異質らしいのです。自分では気づきませんが)

しかし、これまで同じような考え方をしている人の集まり!(つまり仲間だ!)と思っていた場所で、

実は私は異質だと思われていたようなのです。もちろん良い意味でご指摘くださったのですが、私的には、

やっぱり俺って変なんだ!と改めて気づかされたみたいな感じで。

良い意味で言ってくださっているのですが、私は違う部分で孤独感を感じてしまったわけなのです。

私の悪い部分がでてしまいました。仲間だから、似た者同士!と思ってしまっていたのです。

そんなことないのにね。

当たり前の事が判明しただけなのに、面白いもので、そこにショックを受ける自分が愚かすぎます。

私も人間なので、精神的にショックを受けること あります! 

確かに、最近、普通そこでショック受けないでしょ!と思えるようなところでショックを受けるように

なってきました。今日も良い意味で仰ってくださっているのです。でも、そこで自分は違うんだ!と

ショックを受けるという。人生って難しいです。

一生勉強

投稿日: カテゴリー: 日記

こんにちは 住職です。

最近、どうしても忙しない日がでてきてしまい、ブログ更新に気を配る余裕さえとれない日があります。

昨日もそんな日となってしまいました。

今朝は、さほど予定が立て込んでいるわけでもないのに、昨日の疲れの影響か、一つ一つの作業がずいぶん

ゆっくりとなってしまっています。(でも確実に!を意識してやってます)

この更新をしている現在は13時過ぎなのですが、ブログ更新を思い出したタイミングでやっているのです

(そこで昨日の更新状況が気になり、調べてみると、昨日は更新していないことが発覚したわけです)

さて、ここ数日、色々な業務に追われ忙しない日がでてきました。

会議や、次の会議に向けた準備資料(A4版19ページにもなってしまいました( ノД`)シクシク…)の作成、

会議の事前ミーティングに、取材(レンタル墓の取材を受けるのです。オンラインで)、個別ミーティング

に、歴史資料の確認、役所への問い合わせや手紙の発送など、色々と溜まっているので、一つ一つを確実に

こなしていかねばならないので、かなり時間がかかってしまうのです。

今年は、1月から急に忙しくなってしまいました。有難い事です。だって、必要とされているんですからね

。役割を頂戴できるだけでも、有難いことです。

今のところですが、忙しそうなのは2月の上旬までおはずですから、2月中旬は少し自分の時間ができそう

なのです。その時は、少し休みますが、自分の為の勉強もしたい!と思っています。

人生生涯勉強なのです! 頑張るだけ。

気を取り直して

投稿日: カテゴリー: 日記

おはようございます。住職です。

昨日のブログ更新、出来ず仕舞いでした。今年に入って連日更新続けていたのに(涙)

昨日は朝から忙しなく、21時頃まで予定が続いてしまい、ブログ更新など頭にありませんでした。

21時頃にようやく全てが終わったので、疲れ果てて就寝してしまいました。

そして今、書斎で朝の日課であるブログ更新の時を迎え、昨日の更新を忘れていたことを確認したのです。

少し残念な気持ちになりましたが、まぁ仕方ないですね。気を取り直しました。

今日は昨日から一転。さほど忙しくありません。溜まった雑務を進める時間にしようと思っています。

この雑務は、私が非常勤で勤めている築地本願寺(教務所)のお仕事です。

今年に入って、オミクロン株の影響で築地への出勤は控え、在宅リモートなどで仕事を進めています。

私の場合、仕事内容からして、リモートでも大丈夫な案件が多いことが幸いしています。

例えば、会議でファシリテーターを務めたり、過去の会議議事録を確認し、これまでの経緯を纏めたり、

会議に参加(ファシリテーター以外で)したり、同部所の同僚とミーティングをしたり。

主に、これらの業務が多いのです。これらの仕事は、コロナ以降、リモートでもできるじゃん!と気づいた

業務推進方法でした。当然、社会的にリモートを許容しようとする雰囲気があってこそでしたが。

私の場合、リモートが許されることで、コロナ以前のように、築地本願寺まで通勤する時間や交通費が

圧倒的に節約されました。さらに、通勤がなくなったことで私の身体的疲労も軽減され、環境的には車の

運転が減ったので、CO2の排出量もかなり軽減されたような気がしています。

私にとっては、ある種とても良い方向だったと思っています。

比企エリア観光 歴史的背景

投稿日: カテゴリー: 日記

おはようございます。住職です。

今、放映されている大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。ここでは源頼朝の乳母である比企尼が取り上げられて

います。もちろん、比企能員も。

この比企一族の出身地こそが、西照寺がある地なのです。

因みに、鎌倉に行く前に比企尼が住んでいた場所こそが、西照寺から2キロほどのところです。

昔、西照寺があるこの地域は、力を持っていた豪族(比企一族)が住んでいました。

縄文土器が出土する地ですから、人類が昔から住んでいた場所であり、平安時代~鎌倉時代も有力豪族が

住んでいたわけですから、土地的に魅力ある場所なのでしょう。

因みに、東松山市と隣接する滑川町には「月輪」や「月の輪」という地名や駅もあります。

この名の由来は、平安末期から鎌倉時代に摂政・関白として活躍した九条兼実から来ています。

九条兼実は「月輪関白」や「月輪殿」とも呼ばれていたのです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%85%BC%E5%AE%9F

その月輪殿(京都に住んでいた)が有していた荘園が滑川町にあり、そこから「月の輪」という地名が付け

られたそうです。

また、ときがわ町にある「慈光寺」は、とても歴史あるお寺で、当時は東の比叡山とも呼ばれるほど有力

寺院であったようです。比企一族の没落と共に、衰退の方向に動いてしまったようです。

私も観光に行きましたが、どことなく、当時の有力な風情は残っていました。

https://www.temple.or.jp/

慈光寺には、頼朝の必勝祈願みたいなお手紙も残っており、宝物館にありました。

さらに関連することを言えば、昔は紙は貴重なのです。

今みたいに大量生産できるような物ではありません。

お寺ではお経を書き写したり、紙が非常に大事になるのですが、その紙が貴重品であり、高価なもので中々

手に入らないのです。

そこで、昔の有力寺院(全国的な意味での相当の有力寺院)は、紙を入手する方法を持っていたはずなので

す。なぜなら、お経を書き写す為に紙が必要だからです。

そこで関連してくるのが、小川や東秩父村で伝統工芸として栄えてきた和紙なのだろうと思われます。

数年前ユネスコで世界遺産に指定されましたが、この和紙が作られていた土地が、慈光寺のある、ときがわ

町に隣接する小川町や東秩父村です。

https://www.town.ogawa.saitama.jp/0000000431.html

おそらく、鎌倉時代に超有力となった比企一族の隆盛と、慈光寺や和紙なども関係しているはずだと思いま

す。しかし、誠に残念ながら、比企一族が没落したと同時に、地域の力も一気に失われた感がありそうです

。ですから、西照寺のある近隣は、700年頃前から鎌倉時代まで、おそらく500年間ほどは、全国的に見て

も、結構栄えていた有力地域なのだと推測されるのです。

しかし、北条家によって比企一族は滅亡させられてしまい、以来、この土地も力を失ってしまいました。

ただ、今でも比企の名残りがありまして、例えば、西照寺のある東松山市を中心とする吉見町、川島町、

滑川町、嵐山町、小川町、鳩山町、ときがわ町などを比企郡と呼称しています。

確か、平治の乱で破れ、源頼朝は伊豆に流された時、頼朝の乳母であった比企尼が、この地から支援してい

たようです。それから、頼朝が鎌倉幕府を開くこととなり、乳母であり、支援してくれた比企尼を、当地か

ら鎌倉に呼び寄せたのです。だから、鎌倉には今でも比企郡にある地名が、色々と使われています。

観光には、ぜひそのような背景も感じて頂きたいと思います。

因みに、西照寺ではこれら上記の流れとは別に、先祖繋がりの貴重な文化財もあります。

文化財鑑賞会として毎年2回、一般公開しています。

5月のGWや11月3日(文化の日)に2日間づつ行っているのです。

ぜひ、こちらも観光を兼ねて足をお運びください。

最近、再開し始めました!

投稿日: カテゴリー: 日記

こんばんは 住職です。

1月も大寒が過ぎ、真冬のターンを折り返した気がしています。

まだまだ寒い日が続きますが、気持ち的には折り返した気分です。

しかし、今年の冬は本当に寒いです。

11月頃までは、たいした寒さではないですね!などと言っていた気がしますが、

12月の後半以降、猛烈な寒さがやってきました。本当に寒い日々を過ごしています。

私は寒いのが苦手なので、どうにもなりません。

しかし、一週間ほど前から、この寒さの中、朝から運動を再開することにしました。

因みに、当ブログでは「運動」と綴っているのですが、とてもお世話になっている方から、

「あれは運動ではなく、ウォーキングだからね!」と、笑顔で突っ込まれることに。。。

私のブログを見てくださっていることに、驚きましたが、嬉しくもありました。

有難うございます。

ウォーキングなのですが、それだと年齢的(45歳)に考えても、もっと激しいのできるだろ!とか

言われそうだし、でも、激しい運動は継続しなさそうだし。。。でも、運動している!と言いたいし。。。

そこで、ブログではあえて「運動」と表現しているのです(笑) 見透かされました(恥)

この頃は、毎朝8時頃から9時頃まで、1時間かけて7キロほどを歩いています。

朝なので、とても寒く、温度は0℃から3度ほどとなってます。

そんな寒い中でも、マスクを着けているので、冷気を吸っても、気管支への刺激とならないのか、

持病の咳喘息の再発は免れています。

ウォーキングを再開して数日は、体調の様子見をしていましたが、大丈夫そうなので、ここ1週間ほどは

これまで通りのメニューをこなしています。

頻度は、1週間で5日前後行っています。

正直、続けることは嫌なのですが、身体は動かした方が本当に良いです。

調子も良いし、睡眠にも良い影響を与えてくれていると思います。

それにしても、現代は非常に便利で、私はウォ―キングしながら、iPhoneで以下の骨伝導イヤホンに

接続し、音楽やラジオを聴いているのです。

https://jp.shokz.com/

骨伝導イヤホンは、値段も高いのですが、骨伝導なので、イヤホンを耳につけても、耳がふさがらず、

車の音とかも聞こえるのです。イヤホンが耳を塞いでしまうと、外音も聞こえなくなってしまう為、

ウォーキング中だと危ないのですが、骨伝導は音が骨を伝わって聴けるようで、耳の穴は塞がらないのです

。毎日使うものだし、奮発して高価なイヤホンを買いましたが、非常に重宝しています。

マネジメント 管理職の悩み お坊さんはどう考える?

投稿日: カテゴリー: 日記

おはようございます。住職です。

私もお坊さんですが、人間ですので、生きていて苦しいことは多々あります。

どうしようもなく、苦しいです。

お坊さんだからといって、苦しみを乗り越えているなど、ありません。

お坊さんは覚りに近いはずだから、苦しみも少ないはず!というのは、全くの誤解だと

思われます。

浄土真宗的に言えば、覚りに近いどころか、ますます遠い自分に気づくのです。

私も学生時代の宗教経験がありますが、その時に痛感したことは、どうにもならない「我」の認識でした。

覚りは「我」が滅した境地でしょうが、とてもとても。私的に言えば、生きている以上、どうにも「我」は

滅しきれません。

この「我」こそが大問題で、私達の無意識の奥底にある「自分」という勘違いの捉われで、唯識という仏教

の学派では、末那識(西洋哲学では、第七識)と言われています。

ですから、意識よりも潜在的なポディションにあると言われているから、無意識のレベルと言いました。

私達は無意識下で、「我」に捉われていて、この捉われが、色々なややこしい苦しみを生み出してきます。

全く困ったものなのです。(因みに、喜びもこいつがもたらします。)

例えば、管理職、いわゆるマネジメントの分野では、人を管理する分野なので、そりゃ大変です。

私の思い通りに部下が仕事ができていない。どうやって、それを管理し、仕事をさせられるのか?

これができなくて悩まれているホワイトカラーが多いと聞きます。

そりゃ大変です。

大前提として、マネジメントできる!と考える会社の常識こそが、間違っているのですが、しかし現実問題

としては、むしろ、間違っていようが、それが大事になってしまっているのです。

だから、悩む。

そもそも自分さえ、思い通りにならないのに、他人を想い通りしようなどとおこがましいですね。

だからこそ、私は自分の宗教経験を頼って、この問題にアプローチしてみたいと思います。

私の経験は、縁起(仏様)の中に、縁起に埋没しきれない「我」がいたのです。

本当の状態(真実)は、縁起そのもの。しかし、縁起に埋没していない「我」がありました。

それでも、私の「我」に対し、縁起は何も言いません。否定も肯定もしないわけです。

そのまま「我」を包み込んでくれているイメージです。つまり、縁起の中に「我」がいる状態。

私から言えば、縁起(真実)の中に、偽物の「我」があるのに、真実は、偽物を否定しないで

そのまま受け止めてくれている。許してくれている。そんな感覚を抱きました。

この時、私はものすごく申し訳なく感じたのです。と同時に、私の存在は常に仏様に受け入れられている

という、常に一緒感を抱きました。以後、どんな時でも孤立していないと思えるようになりました。

だからこそ、仏様を信頼できるようになると同時に、仏様を裏切るような生き方はしたくなくなりました。

上記は、宗教の話しなので、会社の論理とは違います。

この経験を参考に、実社会に置き換えてみたいと思います。

部下を動かす為には、おそらく上司が信頼されればいいはずなのです。どうすれば、信頼してくれるのか?

と言えば、上記の構造が参考になるのでは?と思うのです。

仏様と同じことをするのは不可能ですが、まずは部下をそのまま受け止めてあげる。存在自体を。

それを部下が受け取れるならば、部下は上司を悲しませたくないから、放っておいても、できることはやる

はずだと思うのです。甘いかな!?

それを仕事がどうしてできてないんだ!などと否定をしたり、判断をしたりしてしまうものです。

そうなれば、部下は上司と対立構造となってしまい、怒られれば怯えるし、パニックになります。

何とか仕事をさせようと、残業させたり、電話をしたり、パワハラなども起きてしまいます。

根源的な部分が間違っているからではないのかな?と、宗教経験をした私からすれば、思う節もあるのです

。上司が部下をそのまま認め、上司が部下から尊敬される人間となっているかどうかがポイントかもしれま

せん。自分が凄いと認める人から、自分が受け止められたら、嬉しいはずだと私は思います。

自分が認める人が、自分を信じてくれて、そのまま責任まで共有してくれると本気で思ったら、部下は

しっかり仕事をするように思うのです。

それができないで、自分が部下から認められる人間であるかを問わないで、部下に仕事だけさせようとすれ

ば、それは上手くいかないのかもしれませんね。部下も、上司を認めていないのですから。

私が甘いのかな!? どうでしょう??? 

人生の落とし穴

投稿日: カテゴリー: 日記

こんにちは 住職です。

私は45歳になるのですが、そんな年齢で人生を語れるほど、達観しているわけではありませんが、

45年を生きてきた中で、思うこともあります。

それは、人生、思ってもいない事が起こる!という事です。全然想像もしない出来事に遭遇します。

それは、良い意味でも、悪い意味でもです。(ここでの良い悪いは、私にとって都合の良い悪いの意味)

悪い意味で言えば、全然想定してもいないし、自分で求めてもないのに、向こうから突然苦労がやってくる

イメージです。その苦労も、ちょっとしたものであれば、受け入れられますし、乗り越えることもできます

。でも、乗り越えられるのかどうかもわからない、むしろ、乗り越えられなさそう!と思ってしまう程の

出来事が来るときもあるのです。

問題を解決しようと数か月も努力した結果、さらに悪い事態に発展してしまう!という経験もあります。

解決する為には、間違いないことを伝えようとするのですが、そもそも考えてみれば、私という人間は間違

いだらけなのに、普通の生活をしている時は、そんな当たり前の事さえ忘れてしまい、自分は間違いない!

と思ってしまうのですね。

例えばですが、スーパーで普通に買い物をします。レジでお金を払ってお店をでます。

すると、「万引きしませんでしたか?」とGメン(スーパーの万引き警戒人)に呼び止められたとします。

私はそもそも万引きしようなどと思ってもいないし、普通に買い物をしてレジでお金を払っているわけです

から、万引きしていないは事実なのです。間違いない。

だから「やってませんし、何言ってるんですか? レシートありますよ!」と間違いないことだけを自信

満々に主張するのです。間違っているのはそっちでしょ!とやってしまう。私は悪くありませんよ!となる

のです。当然と言えば当然ですね。しかし、この「当然」という部分に落とし穴があるわけです。

そもそもGメンに呼び止められるということは、疑わしいと思われてしまう行動をとっていたのかもしれま

せん。しかし、そんな事を振り返ろうともしないで、自分の正当性ばかりを主張するわけです。

このような姿が傲慢なのです。少しでも自分に誤りがなかったのか?などと自分を疑うことをしない。

自分を疑うことを忘れた態度です。

Gメンに呼び止められたら、私の何が疑わしかったのでしょうか?と逆に自分の欠点を教えてもらう

姿勢こそが大事でしょう。教えてもらって、自分の悪い(疑わしい)部分に気づけ、より成長ができるので

す。傲慢な態度は、自分が成長する機会を最初から放棄してしまうのです。傲慢は人生の落とし穴です。

上記は例え話です。私にそのような疑われた事実はありません。

しかし、別の出来事で、私は自分の傲慢さを痛感させられることがありました。

その事を自身で納得した時に、私は膝から崩れ落ちました。傲慢な自分を知ったのです。

私の人生の中でも自分の傲慢さに気づけたことは衝撃的すぎました。

しかも、これは自分で気づきたくて気づくことが出来たものではないのです。望んでないし。

問題がこじれにこじれて、その追い込まれた果てに、やってきたことなのです。

そういう意味では、人生、こちらが望んでないのに、大きな試練は、向こう側からやってくる場合もあって

思ってもいない事って起こるんだな!と、まさに不思議を感じ入るのです。