おはようございます。住職です。
私もお坊さんですが、人間ですので、生きていて苦しいことは多々あります。
どうしようもなく、苦しいです。
お坊さんだからといって、苦しみを乗り越えているなど、ありません。
お坊さんは覚りに近いはずだから、苦しみも少ないはず!というのは、全くの誤解だと
思われます。
浄土真宗的に言えば、覚りに近いどころか、ますます遠い自分に気づくのです。
私も学生時代の宗教経験がありますが、その時に痛感したことは、どうにもならない「我」の認識でした。
覚りは「我」が滅した境地でしょうが、とてもとても。私的に言えば、生きている以上、どうにも「我」は
滅しきれません。
この「我」こそが大問題で、私達の無意識の奥底にある「自分」という勘違いの捉われで、唯識という仏教
の学派では、末那識(西洋哲学では、第七識)と言われています。
ですから、意識よりも潜在的なポディションにあると言われているから、無意識のレベルと言いました。
私達は無意識下で、「我」に捉われていて、この捉われが、色々なややこしい苦しみを生み出してきます。
全く困ったものなのです。(因みに、喜びもこいつがもたらします。)
例えば、管理職、いわゆるマネジメントの分野では、人を管理する分野なので、そりゃ大変です。
私の思い通りに部下が仕事ができていない。どうやって、それを管理し、仕事をさせられるのか?
これができなくて悩まれているホワイトカラーが多いと聞きます。
そりゃ大変です。
大前提として、マネジメントできる!と考える会社の常識こそが、間違っているのですが、しかし現実問題
としては、むしろ、間違っていようが、それが大事になってしまっているのです。
だから、悩む。
そもそも自分さえ、思い通りにならないのに、他人を想い通りしようなどとおこがましいですね。
だからこそ、私は自分の宗教経験を頼って、この問題にアプローチしてみたいと思います。
私の経験は、縁起(仏様)の中に、縁起に埋没しきれない「我」がいたのです。
本当の状態(真実)は、縁起そのもの。しかし、縁起に埋没していない「我」がありました。
それでも、私の「我」に対し、縁起は何も言いません。否定も肯定もしないわけです。
そのまま「我」を包み込んでくれているイメージです。つまり、縁起の中に「我」がいる状態。
私から言えば、縁起(真実)の中に、偽物の「我」があるのに、真実は、偽物を否定しないで
そのまま受け止めてくれている。許してくれている。そんな感覚を抱きました。
この時、私はものすごく申し訳なく感じたのです。と同時に、私の存在は常に仏様に受け入れられている
という、常に一緒感を抱きました。以後、どんな時でも孤立していないと思えるようになりました。
だからこそ、仏様を信頼できるようになると同時に、仏様を裏切るような生き方はしたくなくなりました。
上記は、宗教の話しなので、会社の論理とは違います。
この経験を参考に、実社会に置き換えてみたいと思います。
部下を動かす為には、おそらく上司が信頼されればいいはずなのです。どうすれば、信頼してくれるのか?
と言えば、上記の構造が参考になるのでは?と思うのです。
仏様と同じことをするのは不可能ですが、まずは部下をそのまま受け止めてあげる。存在自体を。
それを部下が受け取れるならば、部下は上司を悲しませたくないから、放っておいても、できることはやる
はずだと思うのです。甘いかな!?
それを仕事がどうしてできてないんだ!などと否定をしたり、判断をしたりしてしまうものです。
そうなれば、部下は上司と対立構造となってしまい、怒られれば怯えるし、パニックになります。
何とか仕事をさせようと、残業させたり、電話をしたり、パワハラなども起きてしまいます。
根源的な部分が間違っているからではないのかな?と、宗教経験をした私からすれば、思う節もあるのです
。上司が部下をそのまま認め、上司が部下から尊敬される人間となっているかどうかがポイントかもしれま
せん。自分が凄いと認める人から、自分が受け止められたら、嬉しいはずだと私は思います。
自分が認める人が、自分を信じてくれて、そのまま責任まで共有してくれると本気で思ったら、部下は
しっかり仕事をするように思うのです。
それができないで、自分が部下から認められる人間であるかを問わないで、部下に仕事だけさせようとすれ
ば、それは上手くいかないのかもしれませんね。部下も、上司を認めていないのですから。
私が甘いのかな!? どうでしょう???