圏央道完成を待ちわびて

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おはようございます。副住です。
昨日はこどもが運動会の振替休日ということで、妻と友達と遊びに出かけていきました。
私も同行したかったのですが、埼玉組門徒推進員養成連続研修会という(長い名前)研修会が越谷市の光善寺さまで
行われたので、そちらに行ってきました。(担当責任者なのです)
東松山から越谷までは車で向かいましたが、西(東松山)から東(越谷)へと横に移動(正確には斜め横)するのですが、
埼玉は、横(東西)の移動がとても不便。整備されてないのです。
理由は電車も高速道路も東京に向かって(南北)整備されているからです。(埼玉は北、東京は南)
光善寺さまは埼玉組の組長なので、会議などを含め越谷に行く機会が増大しました。
その為、最近裏道を覚えたのですが、最短でも1時間半かかります。混んでないので2時間まではかかりません。
裏道を覚える前までは、国道16号線という混んでいる道路を走ってたので、混んでいる時は2時間半くらいかかったこともあります。
これまであまり行かない地であった埼玉東部。ここ数年前から行く機会が増大し、その不便さに改めて どうにかしてくれ!と思った次第でした。
ただ、もう数年で埼玉の東西を結ぶ高速道路、圏央道という道路が完成するはずです。(関越自動車道と東北自動車道を結ぶ線) これが私の最近の希望です。
(でも完成した時には、私は埼玉組の役職から開放されているでしょうから、埼玉東部に行く機会が激減しているかもしれませんが・・・(/ω\*))

地域行事を行う理由・意義。(「迷惑をかけたくない」からの卒業)

投稿日: カテゴリー: 日記

こんにちは 副住です。
昨日は運動会。
この地区では、いつの頃からか小学校の運動会と兼ねて、地区の体育祭も行われているのです。
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(私が小学校の頃は、別日に行われてました)
こどもが少なくなったこと、別日にしても人が集まらなくなったこと、など色々な理由があるのだろうなと想像します。
そこで、小学校の運動会と地区の体育祭を兼ねてしまったのでしょう。
これはこれで、コンパクトで無駄がないような現代向けのあり方のような気がします。
今は、地区の体育祭などが行えるところは少ないのではないでしょうか?
そういった意味では、参加するのは大変ですが、大事なコミュニティーと考えます。
参加するのは面倒(日曜日だから、お寺の法事もあるし)なんだけど、そこに大切なものがあるのです。
面倒だし、気も使う。そんなことから地域のシガラミを拒み、自分たちの楽な方向に進もうとした結果、無縁社会と言われる孤立化が顕著に確認できるような現在となりました。
気が付けば、自分のことは自分でやらねばならない と考えることが当然だと思われる社会となってしまった。 
迷惑をかけたくない。・・・そんな言葉が当たり前のように聞こえてきます。
そんな寂しいこと言うなよ・・・と思います。
そもそも、初めから自分だけで生きているのではありません。
もちろん迷惑なんてかけたくないし、かけられたくもありません。でも迷惑をかけざるを得ないことだってあるのです。
迷惑をかけざるを得ないということが解れば、迷惑をかけられる人も、仕方がないなと頷けるはず。
肝心なのは、「仕方がないな」と頷ける心を育てる環境をつくること。
地域の体育祭は、皆が仕方がないから参加するか・・・と予定をあわせ力を合わせることで成り立つ場所。
きっと、体育祭なんてわざわざやらなくっていいよ!と皆(特に実行委員の方は尚の事そう思うでしょう)が思う時代です。
でも、苦労してそれを行うのにはきっと理由があるはずです。
その理由こそ、「迷惑をかけざるを得ないこと」を伝えていく練習なのではないかと私は思います。
皆が、「仕方がないな」と思える心を養う場所。それが地域の体育祭なのかなと思わされました。
そんな体育祭が成立しない環境では、やはり「自分のことは自分でやらねば」という環境となるでしょう。
西照寺の近辺は、田舎ですが、まだ支え合いが確認できる地域と言えるでしょうね。
因みに、私は綱引きをやってきました。妻は綱引きに長縄跳び。
因みに因みに、こどもの紅組は優勝しました。
さらに地域の体育祭では、わが第2エリアも優勝しました。
今年は強かった!

お寺の運動会

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おはようございます。副住です。
今日はこどもの運動会。毎年日曜日に行われる為、お寺にとっては困ります(笑)
しかし、ご法事を住職に任せ、私はこどもの晴れ姿を見にいこうと思います。
私が小学生の頃は、父親(住職)が運動会に来てくれることは、あまりありませんでした。
(日曜日はお寺が忙しかったので。もちろん空いた時間に少し見に来てくれることはありましたが)
でも、子供ながらにそういうものなのだろうなと思っていたので、悲しいとか悲観的な思いは全くありませんでした。
むしろ当たり前と思っていました。(母親が見に来てくれたました。だからお昼は母親と一緒に食べてました)
時間が経過し、自分が父親となると、ゆっくり見に行ってあげられないことが、あるいは
見に行けないことが 残念に思います。
きっと住職もそんな気持ちだったのだろうな と今になって思うところがあります。
だからでしょうか、法事は任せて、今日は見に行ってきなさい!と言ってくれています。
祖父として、住職も運動会を見に行きたいのでしょうが(笑)

西照寺パラソル

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おはようございます。副住です。
明日から9月も最終週となりますね。
明日はこどもの運動会です。ご法事がありますが、住職にお願いし、パパとして応援+参加してまいります。
さて、お彼岸では屋外のパラソルを出してみました。
paraso
随分、座っている方が増えてきました。
自動販売機で飲み物を購入して、このベンチで飲んでいたり、バスの待ち時間に利用していたり、
タバコを吸っていたり、色々と利用されていました。
たったこれだけですが(購入には多少お金がかかってるようですが)、自然と皆さんが利用されます。
これはこれで、くつろげる空間となるのでしょうね。
しかし、未来の住職塾で学んだことで、新しい視点が自分の中でひろがってきて、その視点で物事を見たりするようになってきました。
今回で言えば、パラソルベンチ(坊守の提案)を設置することで、これまでよりも、屋外でもくつろぐ方が増えました。特に女性が多いのが印象的。
会話が弾んでいたり、長く座っている方も確認できました。
一つの人が集まる場所としての効果がでてたと思います。
今までは、そんなことは考えませんでしたが。
パラソルだけでも、違いがでるのですね。

『アップデートする仏教』についての討論。

投稿日: カテゴリー: 日記

おはようございます。副住です。
昨日、仏像ワールド イスムさんの社長さんとお話をさせていただきました。
仏像ワールド
お話の主な内容は、先日お会いした際、ご紹介いただいた本の感想についてだったのです。
私がその本を読んで、どのような感想を抱くのか、社長さんは興味を持っておられたということです。
さて、ご紹介いただいた本とは・・・
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読書の順番としては、
『アップデートする仏教』を読むことで、次の『青空としてのわたし』がすっきりと読める というもの。
もちろん、『アップデートする仏教』だけでも ずいぶん同感させられます。
両本とも幻冬舎から出版されています。
この2冊を3週間前に購入し、読書を進めていました。
(私は本を読むことが苦手なので、暇をみつけては読書してました)(読みやすい本ですよ)
この本は、今の日本の形骸化してしまったお寺の仏教を『仏教1.0』と呼んでいる。形は残っているけど、仏教本来の内容が抜けてしまっている。とする。
一方で、アメリカで急速に広まっている仏教は、日本のお寺の仏教とは異なり、自己にとって仏教はどう影響を及ぼしてくれるのか?という
実践的な面を掘り下げる仏教であり、日本のお寺での仏教とは、様子が異なると指摘。これを『仏教2.0』と呼んでいる。(両人は過去数年にわたってアメリカで禅を指導している)
しかし、アメリカに伝わる実践的仏教でも乗り越えられていない壁があるというのである。
著者の一人、山下良道氏は、その限界に悩みアメリカを去って、ビルマにテーラワーダ仏教を学びにいく。
そこで解決できた アメリカ仏教の壁を乗り越えた最終局面が『仏教3.0』であると例えられるのである。
ただし、その『仏教3.0』は、もともと日本の仏教にあったものだと指摘される。
しかし、『仏教3.0』のコアな重要な部分をことばで説明することはとても難しく、時間の経過とともにコアな部分が伝わらないまま
誤解をされてしまい、『仏教1.0』としての形骸化だけが残ってしまったのが、現在の日本のお寺なのだろう と指摘されている。
日本のお寺は立派な建物があって、環境的に恵まれているにも関わらず、コアな部分が発揮できていないので、勿体無いと嘆いている。
それは、まさに病院という建物があるのに、医療行為が行われていない病院であると例えられている。
だからこそ、人々がだんだんとお寺から離れていっているのであるし、逆に言えば、きちんとした医療行為を提供することで
本当のお寺として機能していくのではないか という内容である。
私は読んでみて、頷ける部分が多々ありました。
また、新しい視点も提供してもらったとも思いました。一読する価値ある本だと思います。
各宗派それぞれが教義的に仏教3.0をどう理解するかという解釈の違いはあるでしょうが
根幹(さとり)は同じです。
その内容について、イスムの社長さんと色々と話し合ったのでした。
しかし、僧侶から本を紹介されるのではなく、株式会社の社長さんから貴重な本を紹介してもらうなんて。
順番が逆ですね。恐ろしい。とても勉強になりました。ありがとうございました。

柳家さん喬師匠 落語口演 「片棒」「佃祭り」 2014年11月18日 浜離宮朝日ホール

投稿日: カテゴリー: イベント仏事・情報・更新情報・お知らせ日記

こんばんは 副住です。
今日は朝、築地本願寺に行ってまいりました。
業務とある方とお会いさせていただき、情報交換をさせていただきました。
とても勉強となりました。
その後、夕刻に自坊に帰宅し、以前ご紹介させていただいた仏像ワールド イスムさんの社長さんと、これまたお話させていただきました。
とても気さくな社長様で、また今後の日本人としてのあるべき姿などを思想的な観点よりお話させていただきました。
仏像を制作されている会社の社長さんだけあって、日本人の心の大切な部分を伝えていきたいとの強い想いが感じられ、私のお寺と方向性が近いなと
大変刺激を受けた時間をいただきました。
僕も負けずに頑張るぞ!
さて、これまた過日ご紹介させていただきましたが
「お葬式のホンネ」というテーマで 11月18日に落語口演と対談を行います。
場所は浜離宮朝日ホール(小ホール)です。
落語口演は柳家さん喬師匠が「片棒」「佃祭り」を口演くださいます。
師匠の口演を聞ける貴重な機会です。
その後、釈撤宗(相愛大学教授)先生と私(西照寺副住・浄土真宗本願寺派総合研究所東京支所研究助手)が落語にみられる葬儀を振り返りながら
現代の葬儀事情などについて対談をいたします。
申し込み方法などが決まりましたので、早速ご案内をさせていただきます。
お葬式のホンネ 申し込み方法
応募が多数の場合は抽選となります。定員は300名です。
現在の時点ですでに100名ほどの応募があったようです。
(まだ告知後間もないので、ちょっとした驚きですが、これから落語界方面への宣伝をさせていただきますので、さん喬師匠お目当ての方の申し込みもあるのだろうと想像してます)
お気軽に、でもお早めに申し込んでいただければ席は確保できると思います。

スイカ (スイカの葉っぱと赤ちゃんスイカ)

投稿日: カテゴリー: 日記

こんにちは 副住です。
先日、ご紹介したスイカ。写真を撮ってみました。
そろそろ寒くなってきたので、枯れてしまってはいけませんから。
スイカってこんな植物なんですね。7月末に土に埋めたので、たった2ヶ月でこの大きさになったのです。
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因みに、一番大きくなったスイカがこちら
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この大きさだと食べられるのか、判りませんが、もう少ししたら採ってみようと思います。
先日、こどもがとったミニスイカは、割ったら中身は白かったそうです。
スイカの赤ちゃんも見つけました。
suika
赤ちゃんですが、スイカとわかりますね。
夏前だったら、沢山のスイカができたと思います。
来年はうえてみようかな。

お彼岸 秋分の日 意味

投稿日: カテゴリー: 日記

おはようございます。副住です。
今日は秋分の日。お彼岸のお中日です。
毎年、秋分の日は休日ですね。国民の休日。
内閣府のHPでは国民の休日について定義が書かれてあります。
内閣府HP
秋分の日は「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」とあります。
本来は毎日せねばならない大切なことですが、私たちの心は揺れ動き、ついつい大切なことを忘れがちにしてしまいます。
ですから、記念日が必要なのでしょうね。
せめて、一年に一回くらいは(一回では少なすぎると思うけど)・・・定義に沿った行動を心がけていきましょう。
というのが、日本人としてのあり方であると、国として休日を定めたのでしょうね。
私も「敬う」ということ、また「偲ぶ」ということは日本人として大切にしていくべき心のあり方だろうと強く思います。
自分よりも大きなはたらきに気づき、「敬う」ことは、「謙虚さ」を教えてくれることとなります。
自分が一番なのだ!という心は「謙虚さ」とは反対の「傲慢さ」を生み出します。
「傲慢」な生き方は、きっと苦労が多いと思います。だって、自分の思い通りにしたいという心が強くなるし、だけど現実は思い通りにはならないし。
しかし「謙虚」な生き方は、他を尊重する生き方へとつながります。他を尊重する生き方であれば、多少の我慢はありますが、根本的に思い通りにしたいという心が強くなることはありません。
(本当の謙虚さであればですが。偽物の形だけの謙虚さだと、そうはなりません。きっと我慢ばかりしているので、苦しみは深くなるでしょう)
また「偲ぶ」ということも大切です。亡くなった人に思いを馳せること。これは自分がお世話になったと振り返ることができる心があるからこその心だと思います。
換言すれば、自分一人で生きてきたわけではない。亡き方のお陰様で、今の私が成り立っているのだな。と思える心があるからだと思います。
または、それだけ亡き方を自分の中で認められているからこそ、でてくる心ではないのかな思います。
つまり、亡き方を認めるということは、ある意味「敬う」ことにも通じてくるのではないかと思います。
(今は先祖や亡くなった人という定義に沿って表現しましたが、これは決して先祖や亡くなった人だけに該当するものではないと思います)
「敬う」ことは相手を大切であると認めることでもあります。相手を大切だと認められれば、相手はこちらを認めてくれるのではないか思います。
争いは相手を認めないことから始まります。
今日のお彼岸という日は、「敬う」心を確認し、平和な1日にしていかなくてはなりません。
(お彼岸だけ平和にしていればいいというわけではないですよ。本当は毎日「敬う」心を大切にしていくべきだと思います)

西照寺カフェ 

投稿日: カテゴリー: 日記

こんにちは 副住です。
明日は秋分の日。西照寺彼岸會大法要が勤まります。
台風が心配されましたが、当初の予想よりも遅いようであり、またそれていくような感じです。
昨日は晴天ということもあり、また台風の心配もあったのでしょうか、沢山の方々がお参りにこられていました。
西照寺カフェも、認知されてきたのか、流行ってきました。
気候も良いので、屋外のパラソルでお茶をされている方も見られました。
住職は、パラソルはずっと出しておくと、色あせしてしまうという理由で、普段は閉まっておくこととなりました。
普段はイスとテーブルは出ています。
お盆、お彼岸など大法要が勤まる時や、お寺のイベントが行われる際に出すこととなりました。
この出し入れは当然私と住職、あるいは西照寺スタッフがやっています。
余計な仕事が増えたなと思う反面、パラソルが出ることで、なぜか特別感もでてきます。
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(今日はお参りが少ないので、パラソルは閉めてます。)