おはようございます。副住です。
昨日は比企能員の屋敷が襲われ、一日で比企一族は滅ぼされたことを紹介しました。
その際、二代将軍頼家と若狭局との間に生まれた一幡も滅ぼされたようです。
政子にとっては、孫にあたる人物ですが、亡くなっています。
昔は恐ろしいものですね。きっと、権力を掌握するためには、我が子も孫も滅ぼすということだったのでしょうか。
一幡の墓所も、妙本寺にありました。
比企一族とお墓の場所が違うところをみると、様々な事情が推測できそうです。
お墓には碑もありました。よく見ると源頼家公嫡男一幡・・・と書いてあります。
一幡のお墓と比企一族のお墓は、直線で100メートルもないくらいです。
妙本寺のご本堂の横前に比企一族のお墓があります。(植木の右奥に見えます)
一幡のお墓は上の写真の本堂前の植木よりも手前(写真を移している場所の右横)くらいにあります。
本堂をお参りすると、一幡のお墓の方がわかりやすい場所にあるのです。
比企一族のお墓は、案外見逃してしまう場所にあります。
さて、今後は武蔵国の比企郡に残った比企一族の末裔の調査をしていこうと思います。
こちらは西照寺の近辺のことですので、すぐに調査にいける距離の中に色々とありそうです。
ただし、これまであまり視点があてられなかった比企一族。
(それもそのはずなのです。歴史は勝者の手によって歪めらるものなのです。北条政子を筆頭に、比企氏を滅ぼした方々が、比企氏の存在を残そうとするはずもないのです)
そういった意味でも、比企氏はあまり知られていないのかもしれません。
当然、比企郡という地名にも、そんな意味があるのだと知る人も少ないと思われます。
とうの私も比企郡とは、田舎臭い名前だなと思っていたくらいです。
しかし、比企一族のことを知って、むしろ興味が湧いてきたくらいです。
また調査ができたら綴っていこうと思います。