日記

「命の教育」はQC活動じゃない、宗教的にみる責任の所在は

こんにちは 副住です。
先日発生した、長崎県佐世保市の少女殺害事件が報道を賑わせています。
こんな記事を見つけました。
「命の教育」はQC活動じゃない(以下、上記記事と略す)
記事を読んだ感想として、大いに同意するところもありました。
ここからは一宗教者として、私の所感(上記記事に沿って)を綴ってみたいと思います。
所感のポイントは、この事件の責任についての部分です。
マスメディア(特に大手新聞)では、事件の内容から責任について報じ始めています。
上記記事では
「この種の事件が勃発すると、「悲劇」の反対側で、「責任」の物語が展開される。 つまり、自分の責任をまっとうすることができない子供が主人公に設定されている物語では、その子供以外の誰かに責任を持っていくタイプのストーリーが考案されなければならないということだ。今回の事件では、事件が起こるや、新聞各紙は、こぞって、「命の教育」をスケープゴートにあげた。
長崎では、2003年と2004年に少年による殺人事件が相次いで発生し、以来、県をあげて「命を大切にする教育」に取り組んでい」たことを取り上げている。
そこで大手新聞は、命の教育の関係者が「異口同音に反省の声を絞り出」している声を報じている。
現代社会に生きる私たちは、責任という言葉が好きなのですね。背景には、責任の所在をはっきりさせることで、事件に納得をさせていくという構図が見て取れます。
特に佐世保の事件は、常軌を逸している故、事件を知った人々は、論理的にも感情的にも納得がいきません。
納得できない不可解な出来事であるが故に、注目も大きいのでしょう。だからこそ、責任の所在は大切なのでしょう。皆が納得しないと気がすまないから。
ここで、責任の所在を新聞各紙は「命の教育」に求めようとしているのだと上記記事では取り上げます。
当事件では非常に曖昧な、見えづらい責任の所在を、「命の教育」に押し付け、社会を納得の方向へ導こうとうする意図でしょう。
上記記事では、
「「命の教育」なり「命を大切にする教育」なりを徹底すれば、少年による殺人を根絶できると、現場の教育関係者や、その動向を伝える新聞記者は、本心から信じていたのだろうか(中略)相手は人間だ。まして成長期の子供たちは、様々なバラつきを含んでいる。何万人に一人という例外的な精神の持ち主だって、必ず混じっている凶悪な殺人事件が1件起こった事実をもって、ただちに10年間の取り組みを失敗と評価する見方は、こういう場面では、過剰反応と言われても仕方がないではないか」
と述べ、そもそも人間教育はQC活動(品質向上のためにとる生産活動)とは違うと、違和感を述べているのです。まさに同感です。先日のブログでも書きましたが、マスメディアは情報操作し、社会の意識を導く媒体として成立しています。だからこそ、マスメディアがこぞって今回の責任を「命の教育」へもっていくと、社会的な考え方として、「命の教育」はダメだったんだとなってしまうのでしょう。これは危険な考え方です。
最後に、上記記事では、
「そもそも、殺人のような極端な犯罪の発生を防ぎ、その根を断つための条件は、学校よりは、どちらかといえば家庭にあるわけだし、家庭が機能していない場合は、政治(あるいは福祉や教育や社会保障)にその責任が求められなければならないはずだ」と述べています。
やはり、責任の所在を明示するという方向で綴られています。
もちろん責任の所在は大切ですし、事件が二度と起こらないようにするためには、責任の所在を明かすことは必要でしょう。
しかし、これを宗教的にみるとどうなのか?切り口の方向性を変えてみたいと思います。今回は『歎異抄』を参考に所感を述べます。
『歎異抄』の13には、
親鸞聖人と唯円という弟子とのやりとりが記されています。
ある時、親鸞聖人は唯円に「唯円よ、私の言うことを信じるか?」と言われます。
すると唯円は「もちろんです。信じます」と答えました。
次に、聖人は「私の言うことに背かないか?」というので、唯円は「つつしんで承知します」と答えます。
そこで、聖人は「では人を千人殺してきなさい。そうすればお前の往生は確定するだろう」と言い出します。
すると、唯円は「私にはただの一人も殺すことはできません」と応じました。
そこで、聖人は「約束が違うではないか」と述べ、続いて唯円に以下のようにさとしました。
「これでわかったろう。どんなことでも自分の思い通りになるようならば、千人だって殺すことができるはずだ。しかしながら、(現実には)一人でも殺せるような因縁がなかったから
殺害しなかっただけなのだ。自分の心が善いから殺さないというのではないのだ。また逆に、殺害すまいと思っても、百人・千人というたくさんの人たちを殺すこともあるだろう」と。
この見方からするならば、因と縁が重ならないと事象は起きないことが見て取れます。
殺したくないと思う心の因としてあっても、殺してしまう縁とあえば、殺人は起きてしまいます。
また、殺したいという心の因があっても、殺すことができない縁とあえば、殺人は起きないということも言えるでしょう。
森羅万象は諸行無常です。ありとあらゆる因縁が複雑に、まさに人智を超えて展開しています。
まさに宗教の世界です。
だからこそ、宗教的なある種の一面的な見方からすれば、そもそも責任の所在を特定に断定することは不可能でしょう。
それを行おうとする人間の考え方に問題があります。
しかし、だからといって責任の所在を明かすなと言っているのではありません。そうではなくて、特定して責任の所在は明かせないということを知っておくことが大切であって、
そこから出発することで、事件の因的な性質と如何に向き合っていくべきかを検討していくことが大切なのではないかと思います。
上記記事では
「一人の人間の一生の中でも、その時々のタイミングやめぐりあわせで、様々な不確定要素があらわれるもの」と指摘しているのです。
だからこそ、責任を特定し、断罪していくという今の流れに賛同はできないし、その方向に疑いを持たなくなってしまった私たちのあり方も反省しないといけないのかもしれません。

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