日記

宗教的感性を磨く必要 (ご法話 話し手と聴き手のミスマッチ)

おはようございます。副住です。
昨日は成道会(ジョウドウエ)布教大会が築地本願寺にて行われました。
成道会とは、お釈迦様がお悟りをひらいた日とされる12月8日に開かれる集会。
成道とは「お悟りへの道が完成した」という解釈でいいと思います。
「お悟りへの道が完成した」12月8日に、皆で集って仏教のお話を聞く。これが成道会布教大会。
築地本願寺のご本堂にて、毎年(ほぼ12月8日に)開催されます。
時間帯は午前9時から午後15時すぎまで。
布教使(フキョウシ・・・お話をするお坊さん)さんが7名~8名登壇します。
時間帯が遅くなるにつれ、年長の布教使さんとなっていきます。
私は昨日、ご法話を聴きにお参りさせていただきました。
いずれも、有難いご法話を聴かせていただきました。
ただ、これは私の偏った見方ですが、どうしてもお話の内容と、それを聴いている方々の雰囲気がマッチしていない。
私は有難いお話だと思うけれど、会場(聴いている方は200~300人くらいいる)の雰囲気がシーンとしている。
寝ている方も数多くいる。
(当然、寝ていることが悪いというわけではないのです。寝られるほど、安心できるのですから、有難いことです。しかし、有難い話なのに、寝てしまう。なぜ?)
おおよそ、布教使さんご自身も感じておられることだと思うのですが、話し手(特に話の内容)と聴き手にミスマッチがおきている。
話し手は「仏様の有り難さ」をお話するのですが、聴き手はその内容についてこれない。
例えば、話し手が表現に用いる「仏様の光は・・・」「仏様のお慈悲は・・・」などの表現も、聴き手はついてこれない。
短気な聴き手だと「何言ってるのか、さっぱりわからない!これじゃあ、意味がない」と思われるかもしれません。
短気ではない人でも、話題についてこれなく、会場が暖かいと・・・zzz。寝てしまうことも頷けます。
だったら、もっと表現をわかりやすく簡単にすればいい!と思うのですが、解りづらくても、どうしても表現を変えない方が良いという世界もある。
ましてや、布教使がそれをする必要はない。(説明すると長くなるので、取り敢えずそういうことにしておいてください)と、これは私個人の考え方です。
私は、話し手と聴き手のミスマッチはどうしてできているのかと考えた時、それは聴き手の感性が脆弱になってきているのではないか?と思うようになっています。
これは、聴き手が悪いというわけではないのです。現代という時代、あるいは日本という場所の問題なのか?はわかりませんが、
取り敢えず、今後年代が下がるにつれて、その感性はますます脆弱となっていくような気がしています。
では、この感性とは何か?・・・おそらおく「認識不能(見たり触れたりできない)なはたらき」を察知する感性。そして、「認識不能なはたらきに想いを馳せる」感性。
難しいことを書いてしまいましたが、現代の私たちは見たり触れたりできる事象に対しては、「間違いない」と確信をもちます。これらはある種科学で証明できることです。
しかし、科学が及ばない世界。例えば、「お陰様」という世界。これは様々なはたらき(ご縁)が重なってできている世界であって、自分の認識を超えたもっと大きな世界を意味します。
これは現在の科学でも説明ができない世界でしょう。この大きな世界、換言すれば「認識不能なはたらき」を察知する感性が脆弱になってきているように感じます。
ましてや、「お陰様に想いを馳せる」感性(例えば、お陰様を人格化して、お陰様はどのような気持ちをもっているのだろうか?と考えること)などは、脆弱の極みにあるのかもしれません。
昔の日本であれば、「お陰様」に感謝ができる世界が、今よりももっと広がっていたような気がします。(何となくですが)
きっと「お陰様」がもっと表現として使われていたのではないかと思うのです。(数年前、20代の男性と「お陰様」の話をしたら、「お陰様って始めて聞きました」と言ってました)
もう若い人には、「お陰様」が通じなくなってきているのかもしれませんね。(年齢的に私と10歳くらいしか違わないのに、ショックを受けました)
私たち宗教者は、いわば、宗教的な感性を養っています。宗教的な環境にいるわけですから、嫌でも宗教的な感性を磨かねばなりません。
その感性がある程度養われた過程に、例えばお経の中に含まれてある宗教的な感性を汲み取ることが可能となります。
上記にあげた「仏様の光は・・・」「仏様のお慈悲は・・・」との表現は、昔から伝えられてきた宗教的感性の純化された表現形態です。
ですから、これを安易に換言しない方が良いのです。
だったらどうしたらいいのか?
答えは、現在の聴き手の感性を養生することです。宗教的な感性は宗教的な環境に身を置かねば養うことが難しいです。
仏教や浄土真宗の宗教的感性は、お寺で養うことがてっとり早いです。
ですから、各お寺で聴き手の宗教的感性を養生することが肝要です。
その上で布教使のお話が聴けるのだと思います。ここにミスマッチが解消できる可能性があるのだと思いました。
あと、このブログを見ているというお坊さんがけっこうおられるようです。これを見て、私の行動を把握するのはやめていただけますでしょうか?(笑)
このブログは一般の方が見てくださるようにとの思いで毎日綴っています。ですから、私の秘密や正直な気持ちとかも綴っています。