日記

日本対ポーランド戦の批判 試合放棄に監督の深い自己犠牲を感じます

おはようございます。副住です。
月曜日から、連日、築地本願寺への
出勤と、ある日は西照寺の法務と
さすがに余裕がもてる日がありませんでした。
ようやく、昨晩22時頃に帰宅し、今日は築地
に出勤しなくてよい日となっています。
(違う予定があるので、今から外出しますが)
さて、昨晩、ラッキーなことに、帰宅して間もなく
ワールドカップ、日本代表対ポーランド代表の試合を
見ることができました。
もっとも、ロシアワールドカップは日本では深夜の
時間帯ですから、仕事で見れない!ということは
ありません。でも、もし昨日の試合が21時から
だったとしたら、私は見れなかったのです。
私は今回のワールドカップは期待してなかったし
予選突破など、予想もしてませんでした。
でも、そういう時になぜか活躍する。
昨夜の試合は、少し期待してみました。
でも期待すると、負けてしまう。
昨晩もそうなってしまいました。
終盤、コロンビアがセネガルにリードしている
ことから、日本は試合を放棄してしまいました。
私は、点をとりにいかないとダメだろ!と内心思いながら
他会場の結果に委ねる日本の姿勢に不満を持ちました。
やはり日本は挑戦者なのだから、ここで点が取れないよう
なら、先はないだろう!と思っているのです。
しかし、監督は違ったようです。
正直言えば、私はこのような姿勢は私の価値観には
ないので嫌気がさしました。
しかし一方で、ありと言えばありなのです。
考えようだと思います。
もっとも私は違う価値観なので、スッキリしてません。
あの西野監督(埼玉の浦和出身らしいです)の決断は
ある意味、日本サッカーの成長を目撃した瞬間でもあったように
感じています。
時には世界から批判されようが、前に進むためには監督自身が
犠牲にならないといけない時があると思います。
本田選手が言っていたようですが、日本は犠牲になれる
精神をもつ、世界でも稀有な民族だって。
おそらく、西野監督の決断は、日本のサッカーを一歩前に
進めるための犠牲を覚悟したものだったと思います。
そもそも試合を放棄するような態度は、監督自身が望んで
ないはずなのです。
でも、この状況の中で、その先(決勝トーナメント)
に進めるかもしれない!という可能性を最大限
高めるには、今、目の前にある試合を犠牲にすること
となったのでしょう。
試合を放棄すれば、皆がブーイングするし、批判される。
そんなことしたくない。しかし、批判を全部背負っても尚、
日本サッカーが一歩前に進める可能性があるならば!
日本サッカーの成長を願う監督ならではの、決断だったと
思います。見事に、結果が伴ってきたのですから、
ありと言えばありなのです。
おそらく、監督はベスト8まで見据えていると思います。
だから、選手を大幅に入れ替えたのです。
次の試合に向けて、数人を休ませられた。
それはつまり、ベスト8まで見据えられたことを意味
していると思います。
ベスト8まで進めなかったとしても、ベスト8まで見据えて
行動したことに意味があるのです。だから、もう既に意味が
あるのです。ポーランド戦で多くの選手を入れ替えて
試合に臨んだのは、ベスト8まで見据えた行動だったわけです。
その行動の果てに、決勝トーナメントまで進めたのですから
日本のサッカーは、これまでより一段上のステージに進んだ!
と私は思います。
そう考えると、監督の自己犠牲の精神は、日本人らしい
精神なのかもしれません。そこに大きな感動があります。
まさに仏教です。自分以外の何かの為に、自己を犠牲に
できる。素晴らしい精神です。西野監督は、全ての批判
を覚悟の上で、日本サッカーを前に進めてくれました。
ありがとうございます。
最後に補足です。
仏教の説く、自分を省みず、他の為に行う行為=自己犠牲は
本当に難しい行為です。なかなかできません。
私も僧侶ですが、本当に難しいことだと実感してます。
では、なぜ仏教で、他の為に行為を行うことが大切!と説くのか?
それは、自分を忘れる!ということを教える為だと思います。
本来、一番大切に思えてしまう自分を忘れて、他の為に行為をする。
それが大きな喜びに繋がる。そのことを教えてくれているのです。
私たちは本来、自分を一番に考え、行動してしまいます。
しかし、それは大きな喜びとはなり得ない。本当の大きな喜びは
自分を忘れたところにあるのかもしれません。