日記

教誨のやり方 (教誨師)

おはようございます。住職です。

昨日は川越少年刑務所に教誨に行ってきました。

集合教誨といって、被収容者の中で、希望した方が集合して

宗教の教誨を受けるというものです。仏間で行います。

昨日は、凡そ45分程度。初めに10分ほど、お仏壇に読経し

その後、35分ほどお話です。昨日は戒律の話をしました。

教誨師となって、5年以上(教誨師になった時期を、正確に覚えていないのです)

が経ちますが、今ようやく自分なりのやり方が定まったような

感じです。

私の場合、集合教誨(違う種類の教誨もあるのです)であれば、

10分程度、読経。その後、30分程度話をします。

私の場合は、実生活でも参考になるような仏教の話をするように

心掛けています。ですから、被収容者と対話しながら進めてます

難しい話はしません。あまりに専門的な話や自宗の教義の深堀

などは一切しません。そこまでのレベルではなく、例えば、

仏教で戒律がなで必要だったのか、その背景を語ることで、

被収容者の生活を整える為には、自分なりの「決まり」を保つ

ことを心掛けてみる!とか、提案したりしてます。

それを被収容者と対話形式でやったりしてます。

教誨を受けに来る被収容者は、結構、刑務所内での生活や、

自分を見つめる時間を大切に考える人が多い傾向にあるので、

生きるヒントを求めにきている場合が多いように感じます。

実際、対話の中でも、教誨を受けて「色々な考え方を知ること

ができて良いです」とか「生きる勉強になってます」と語る被収

容者が多いのです。だから、私は対話をしながら、被収容者に考

えさせてます。私が話た内容について、逐一「君はどう思う?」

とか、一人一人に聞いて確認しながら進めてます。

そうすると、時間は全然足りません。被収容者も聞かれるもん

だし、自分の意見を言えるから、私的には楽しそうにしている

ように見えます。

そのかわり、ここでは綴りませんが、こちらが戸惑うような

驚きの質問というか、感想というか、意見を言ってきたり

する場合があります。つまり非常識なことというか、言わなくて

もそんなこと当たり前だろう!と普通の人が思っているような

ことが、彼らには理解できていない可能性があるのです。

ですから、教誨師は非常に勉強になります。

私もとても勉強になっています。

色々な問題が見えてくるのです。

ここまでくると、本当の宗教者にしか対応できないだろう難しさ

があります。つまり、質問の内容が純化しすぎて、あるい

は深すぎて、宗教者以外の人であると答えに困ると思います。

普通の人は、そんなことに疑問を持たないし、理由なんて不要。

もし聞かれたら、え!?だって当たり前でしょ。そこに理由なん

てないし、聞かれても困る!みたいになるでしょう。

これだと、具体的ではないから、敢えて例えを綴りますが、

「なんで人を殺してはダメなんですか?」とかの問いです。

上記は例えです。そんな事を実際質問されたことはないですが、

例えば、そんな根本的な問い、というか、普通はそこに疑問さえ

もたないような部分に、疑問をもってしまう。そんな人がいます

上記例えは、猛烈に悪い内容ですが、私が言いたいのは、被収容

者が猛烈に悪い存在ということではありません。

そうではなくて、生きている上で、普通の人が疑問に思わない

部分に疑問をもったりしています。そして、その疑問をもちなが

ら、相談しても自分を理解してもらえない。

そんな経験が、やがて孤立をさせていく。その果てに犯罪に繋が

る。そして被収容者となっていく。

そんなルートさえあるように思えてなりません。

川越少年刑務所は、若年で初犯の軽犯罪者が収容される特性があ

る刑務所です。従って、全員が初犯の者です。数か月か数年で出

ていきます。

しかし、現在の日本は一度失敗した者に厳しい社会です。

出所しても、その後、受け入れてくれる社会ではないので

さらに孤立を深め、再犯せざるを得ない環境となっていく

条件が整っているのです。

従って、再犯者は6割だそうです。

社会は犯罪を犯した者が悪いというけど、教誨師をするように

なって知ったことは、犯罪を犯すには、周りの環境もとても影響

しているということ。

もちろん、私も人間ですから、実害にあえば当事者を責める気持

ちがでるでしょう。綺麗ごとを言うつもりはありませんが、

冷静に考えてみると、社会という環境が影響していることも

充分にありえるのだと、勉強になりました。

さてさて、教誨のやり方に関してですが、不思議なことですが、

最初に教誨師をやれ!と仰せがあった時は、教誨のやり方などを

教えてくれるのか!?と思いきや、自分でやってみればわかる!

と言われ、ほぼ何をすればよいのか?を教えてもらえず、

上記写真の本を頼りに勉強し、自分なりの教誨をつくりました。

ですから、私の教誨がそもそも正解なのか?も判ってないので

す。もっとも、正解の型にはまった教誨なんてものはないでしょ

うけど。

その為、教誨師では研修会が結構多いのです。

他の教誨師さんも、おそらく私と同じように悩んでいるはずだし

他の教誨師の教誨に立ち会うこともないので、比較ができないの

です。唯一、研修会などで、自分の教誨はこんな風にやってます

とか、他の教誨師さんのやり方を聞ける時があるので、それを

参考に、自分と照らし合わせることで、色々と解ってくること

があるのです。そういった意味では、大切な研修会なのです。