おはようございます。住職です。
世界の大陸には、色々な人種が共存していて、今でも人種の違いで争いが起きています。
だからこそ、競い合って勝ち残ることが文化的に根付いているのです。
特にキリスト教の影響を受けた地域では、個別主義ですから、個人個人の競争が基本となっていくのだと思
います。
ある時代には、食料を巡っての競争もあったでしょう。
ある時代には、領土を巡っての競争もあったことでしょう。
現代の特徴の一つとして、経済を巡っての競争もあると思います。
これらの競争は、やはり「命がけ」な訳です。
「命がけ」だからこそ、シビアなのだと思います。
今でも日本人が海外旅行に行くと、スリや置き引きなどに気を付けるよう注意されることがありますね。
海外では、人の物を取ってまでも自分は生き抜く!などと考えているのかもしれません。競争だから。
逆に海外の人が日本に来ると「日本は安全で素晴らしい!」と決まり文句のように言います。
日本人は他人の物まで奪って生き抜こうとしていないのかもしれません。
これは、「命がけ」で生きていない。という考え方と、他人の立場で考える(一体性)文化によって競争が
苦手である。という考え方の両方できるように思います。
(しかし、昔の日本にも盗賊がいたと言われるし、命がかかれば、盗みも行うかもしれませんね。)
最近、日本の経済力は成長率も横ばいですし、今後はより減退することでしょう。
私は、どうしてこうなってしまったのかな!?と時々思うことがあります。
だって、一時期は経済大国として、世界中から羨望の眼差しを受けるほどの力を発揮していたのです。
それが、バブルが崩壊してから、真っ逆さま。
今では世界の国々に、どんどん追い抜かれていき、貧しくなっていく道が明確に見えてしまっています。
日本においては、今後の成長を期待できる環境になく、今後の衰退こそが現実的な雰囲気であるように思い
ます。
このドンヨリとした雰囲気。
ワクワクできる未来に向かって!というような雰囲気はなく、日本社会では「普通の生活」から脱落しない
ように!と、皆が必死に今より大変な状況にならないよう、ただ頑張っているだけのような雰囲気さえ漂っ
ているようです。まさに閉塞感ですよね。
私は、この理由の一つに「命がけの精神性」を日本人が失ってきていたことが関係しているのではないだ
ろうか!?と考えています。
所謂、「死」を隠し続けた結果、生きていることが前提となってしまった日本社会が出来上がったことで、
「命がけ」しなくて良くなってしまったのです。
これまでの日本は、それなりに働いていれば給与も人並みに貰えたし、飢え死になんてあり得ない。
もちろん、事故や病気で死ぬことはあるけれど、メディアは「死」を隠してしまいます。
「死」を隠し続けた結果、「生」もよくわからなくなってしまいました。
「生きている充実感」を感じづらく、毎日が単調に続いていく!かのような錯覚に陥る日常を過ごすことと
なってしまったのです。
「死」を忘れた「生者」と、「死」を意識した「生者」では、どちらが生の実感を得られると思いますか?
「死」を意識した「生者」と、常に「死」への覚悟をもった「生者」では、どちらが充実した日々を過ごせ
ると思いますか?
おそらく、現代の日本社会は【「死」を忘れた生者が沢山】
おそらく、日本と比べて海外は【「死」を意識した「生者」がいる可能性が大きい】
おそらく、武家社会の日本(特に武士)は【常に「死」への覚悟をもった「生者」がいたのだと思います】
武家社会の中で育まれたであろう価値観の良い部分を、今からでも現代版としてリニューアルし、日本人が
取り戻すことができるのであれば、きっと今後の日本も面白くなっていくと思うのです。