日記

欲望をなるべく深めないのが仏教の効果でもありえるように思えます。

おはようございます。住職です。

今日は台風の影響なのか、朝から雨模様です。

今朝は、walkingしようかな!と思って外に出たら小雨だったので、取りやめました。残念。

さてさて、人生とはなかなか大変なもので、特に僧侶となると、生き方が仏道となるので、

それはそれで厳しいものだと私は感じています。もちろん、全てのお坊さんが、仏道を歩んでいるのか?と

聞かれたら、それは自身の問題となるので、わからないのですが、少なくとも私は大変です。

だって、人間だったら堕落したい一面もあるし、楽したい時だってあるし、自分に甘えたい時だってありま

す。私は堕落している時もありますが、それを正さねばならない!と堕落ブレーキをかける装置が働くので

す。そのブレーキ役が仏教というのか、宗教経験からくるものなのです。

そりゃ人間ですから、皆さんと同じで楽したいし、欲望だってあるのです。

でも、欲望に突っ走ることはありません。欲望はありながらも、欲望に突っ走れないようになるのですね。

私は20代前半の頃から、欲望に突っ走らないようになってしまったのです。仏教と出遇ってしまったから

仏教と出遇ってしまったら、欲望に飲み込まれる方向に歩めないようになってくるのです。自然と。

だからといって、欲望が無くなるわけではありません。そりゃお腹すけばご飯も食べるし、美味しいものが

食べたいと思うことはあるし、それができる状況であれば実現することもあります。

だけど、高望みが少なくなる。今ある状態に身をおく。そんな生き方になると言えばいいのか。

何となく言うならば、今以上を求めるというよりも、私の場合は、

今を継続できるようにしたい思いはあります。成長よりも安定志向なのかな。経済的な面から言えば。

経済的な面ではなく、能力的な面から言うと、こっちは成長を求めてしまいます。

勉強なんてしたくはありません。だって大変だもの。読書は嫌いだし、楽しいことをしていたいです。

でも、勉強をするようになります。読書もします。やはり、人間としてきちんとしなければ!と思うし、

真実の追及こそが大事であることがわかってしまっているからです。

こうなると、サボりたいですよ。そりゃサボることあります。そんなに全力投球で日々真実の追及に

追われているわけではなりませんよ。程度がある。

しかし、日々の生活の中で、真実の追及を意識しながら、何かしらを行っている訳です。

本堂で読経するにしても、声の響きを意識するし、普段の行動も、真実に照らし合わせてみれば、どうなん

だろう?との判断軸は常にあります。こうなってくると、行動や考え方も自分を律する方向に行ってしまう

のです。だって、自分が真実ではないのだから。たぶん、自分の欲望に振り回される方が、苦労はしないの

です。だって、自分のやりたいようにできるのだから。もちろん、自分のやりたいように出来ない現実と

出合うこととなるでしょうから、その時に大きな苦しみに襲われることとなるのでしょうが。

しかし、真實を追求すようとする道を歩もうとすると、自分の欲望に振り回されないように、なっていくの

です。間違えないで欲しいことは、欲望がなくなることはないのです。欲望に振り回されないように

なっていくのです。

欲望がなくなることがないので、お腹がすけばご飯を食べるし、疲れたら寝たいと思います。

また、それよりも欲望的な側面だって持ち合わせています。しかし、それが深まっていくことが

抑制されてくるのです。ここら辺が、一体なにが楽しいのだろう?と思わせる側面なのかも

しれませんね。(笑)