日記

集合教誨と個人教誨

おはようございます。住職です。

今日は午後から教誨師の活動で、川越少年刑務所に行ってきます。

集合教誨と呼ばれる教誨が、今日のメインとなります。13時半から開始。なので、13時過ぎには会場に

入っておかねばなりません。

集合教誨というのは、刑務所に収容されている受刑者(私達教誨師は、被収容者と呼びます)の中で、

教誨を希望する人が同時に一部屋に集まって、教誨を受ける場合のことを集合教誨と言います。

教誨とは何か?と言えば、これは結構難しいのですが、宗教の教え(私の場合、浄土真宗本願寺派の教え)

を説く中で、被収容者がそれを聞いて、自ら犯した罪や自身そのもののあり方を見直し、改めていくことに

繋げる為の機会だろうと、私は思っています。

ですから、色々な宗教の教誨師がいます。在来仏教は然りですが、その他にはキリスト教、神道、天理

教などの教誨師さんがおられます。キリスト教はカトリックやプロテスタント(解り易く言えば、教えの

派閥ですね。日本仏教でいう所の宗派と同じです)の教誨師さんがおられたように思います。

被収容者は、キリスト教か仏教か神道かなど、選択して教誨を受けられるようになっているようです。

という事で、今日は集合教誨を行ってきます。そして集合教誨が終わったら、続いて個人教誨の希望があっ

たそうなので、お引き受けしました。

個人教誨というのは、被収容者が個別に教誨を申し込む制度があるようで、それに応えて行う教誨のことで

す。だから、個人教誨の場合は、一対一です。

ここ数年、個人教誨の依頼が、刑務所を通じて入るようになってきたのですね。

たまたま、私が集合教誨で行く時に重ねて、個人教誨をご依頼されるのです。

集合教誨の際は、その後の予定も空けている場合が多いので、引き続いての個人教誨もお引き受けするので

す。今日もそれがあります。多い時には、集合教誨を終えて、個人教誨が2つ続く場合もあります。

その場合、集合教誨を終えて、そのまま引き続いて個人教誨を行い、それが終わってから、もう一度個人教

誨をするというパターンになります。

教誨は長くても小一時間程なので、時間的には然程でもありません。しかし、向き合う相手が被収容者なの

で、かなり気を遣います。いわゆるマジでいかなければ見透かされてしまうので、ある意味命がけの覚悟で

望まねばなりません。それは命がけで教えを説く!という覚悟の話しです。

表面的な教えの話しをしたところで、実感に響きません。見透かされてしまうと思います。

だからこそ、こっちも教えに生きているんだよ!との覚悟というのか、そういうものを込めながら対峙しな

いと、聞いてくれないと思います。

もちろん、刑務所だけではなく、平時でも同じことなのですが、しかし刑務所に行く時は、私も人間ですか

ら、そのことを余計に意識するという感覚なのです。だから、短時間ではありながらも、結構疲れます。

そんな訳で、今日は13時から会場に入って、出てくるのは夕刻頃になるのかな。