生き方の拠り所(どう生きていけば・・・)
おはようございます。住職です。
今朝は目覚めが早すぎました。4時に目が覚めてしまいました。
まだ頭は眠いのに、目が覚めてしまうのですから、辛いのです。
さてさて、連載の続きです。
これまでは、自分を取り巻く外部環境(地域社会や国や一族など)によって、否が応でも、ある種の強制的
生き方の枠が勝手に定められていたのですが、個人化する流れの中で、それらの力が勢いよく失われてきた
のです。
ここが近年新たに起こってきた日本人の問題だと私は考えています。
この生き方のアイデンティティの問題は、人間の根本的な問題となり得ます。
ですから、これを抜きにして生きていくことは、危険なのです。
生き方のアイデンティティが形成できなければ、人生において、時として何か問題が起こった時に、猛烈な
自己不信に陥ってしまう可能性もでてくるでしょうし、時として重要な決断を下さねばならない人生の岐路
で、自己が進むべき道が明確に決断できず、右往左往する結果にも繋がるように思います。
つまり、何となく生きてしまう人間をつくりだしてしまうのです。
「何が良くて、何が悪い」との判断軸を構築できるのは、自己の生き方の拠り所次第によって変わります。
人生の中で重大な決断をしなければならない局面に出あう際、もっとも頼りとなる判断軸こそ、
自分の生き方のアイデンティティです。
それがあれば、多様性の中でもしっかりとした自己主張が保てるし、責任ある決断もできるのです。
逆に、それがなければ、自己がわからず、右往左往する人生となってしまいます。
おそらく、自分がよくわからず、周りに流され右往左往する人生を好む人はいないと思うのです。
なぜなら、周りに巻き込まれ右往左往する人生は、疲れるからです。
生き方のアイデンティティは、個別に自分勝手に養えるものではなりません。
そもそも自分なんて、地に足がついていない生き物です。間違いだらけです。
だからこそ、頼りない存在なのです。
私は、実はこの生き方のアイデンティティの拠り所になり得るとすれば、それこそが仏教なのではなかろう
か?と思っているのです。
私は、これまでの2500年を越える仏教の歴史の中で、今ほど仏教の力が発揮できる時代はないのではないだ
ろうか!?とさえ思っているほどです。