大谷浄苑情報日記

西照寺の歴史と永代供養墓へのこだわり (東松山市の永代供養墓)

おはようございます。副住です。
今日は祝日、ご法事が勤まります。
昨日から住職が、実家の延浄寺に行っています。
延浄寺
住職の実家です。
住職は確か延浄寺の4男として生まれたのです。
(確か、というのは、昔は幼少期で亡くなる方もいて、住職の上か下の男の子が、生まれて間もなくして亡くなっているのです)
住職はお寺が好きで、よく父(西照寺住職の父ということ)と一緒にお参りに行ったようです。
しかし、長男ではなかった為、お寺を建立したく思い、たまたま後継者がいない西照寺を引き継いだのだそうです。
ただ、その時の西照寺は、有名無実化していたお寺であって、いわゆる本堂や敷地などはなくなっていたのです。
(詳細を綴ると、当時の西照寺住職がご門徒の連帯保証人となってしまい、騙されてしまったというわけです。昭和初期あたりの話のようです)
(昔の話ですから、お寺や敷地など没収されてしまったのですね。当時の西照寺の住職はとても人が良かったと聞いています)
(しかし、お寺の住職を騙してはいけませんね。連帯保証人になってしまったことも問題ですが)
西照寺に残っていたのが、聖徳太子などの仏像や、引き取り手のわかならくなったご遺骨(数個あったようです)、それと宗教法人西照寺だったようです。
(西照寺のご門徒は、他のお寺に移ってもらった方が大半だったようです)
そんな西照寺を現住職は受け継ぐこととしたのです。
有名無実化する前、西照寺は板橋区にあったようです。
それを住職が引き継ぎ、同じ板橋区の常盤台に移転(常盤台は、現西照寺住職の妻の実家)。
数年その地で励み、住職の実母の願いや縁もあって、埼玉県東松山市に昭和56年に移転してきたという形です。
因みに、西照寺の永代供養墓は、
現住職が西照寺を引き継いだ際、共に預かったご遺骨を納骨する為に設けたお墓なのです。
住職は、西照寺を引き継いだ時から、ご遺骨をしっかりと納骨したいと思い、平成5年(1993年)に立派なお墓を完成させます。
その時は、倶会一処墓と命名していたのです。
その後、世間では永代供養墓という名称が拡がっていき、また西照寺の内部でもお墓の後継者が絶えてしまうという問題がおこり、
倶会一処墓の内部を開放することとなったのです。
さらに近年、副住の意見を住職に聞いてもらい、永代供養墓として一般の方にも開放させてもらいました。
その時の住職から言われた言葉が「私たちの生きる時代を作り上げた先人のご遺骨を納骨するお墓なのだぞ。大切にさせてもらうこと」とのものです。
そこで、副住も考えました。
「先人は仏様の世界に往かれたのだから、内装を仏様の世界を感じられるものに改装しよう!」と。
ご門徒の協力を得て、現在内装を相応しいものに改装している段階です。
西照寺 永代供養墓
改装には時間がかかりますが、大切な場所だからこそ、私たちの手作りで進めています。
いずれ、完成したらご紹介させていただきます。