日記

法光寺様の永代経

おはようございます。住職です。

昨日は、平素から同じ埼玉県内のお寺としても、お世話になっている越谷市の

法光寺様に、ちょっと来なさい!と呼ばれ、ご法話をさせていただきました。

法光寺様の永代経法要だったのです。

越谷市にある浄土真宗本願寺派の法光寺さんは、もともとは築地にあったお寺様です。

築地本願寺がありますが、その近くにあったお寺様なのです。

もともとは、築地本願寺を一番奥の中心寺院として、その門前には約40数ヶ寺程お寺が並んでありました。

それが、関東大震災が起こったことで、東京都は火事が酷くならないように、区画整理などを行いました。

同時に、築地の地に市場を作ることとしたのです。その時、多くのお寺が郊外に移転していったのです。

この時は、火事でお寺が燃えてしまっていたので、移転しやすかったのでしょう。

因みに、この時、築地から調布市に移転したのが、私の父親の実家、延浄寺です。

延浄寺は、江戸初期の1632年に、江戸の浜町(今の日本橋界隈)に、西照坊というお坊さんによって

建てられたお寺です。その後、築地本願寺が建てられる!ということで、お寺を築地に移転してきたようで

す。そこから築地に約250年ほどあったようです。そこで関東大震災が起こって、区画整理の為、調布市に

移転していきました。

私の父親は、現在の延浄寺第15代住職の弟にあたり、延浄寺は継ぐことができませんでした。

そこで、新たにお寺を建立。延浄寺の開基であった西照坊の西照をとって、西照寺としたかもしれません。

さて、話は戻りまして、法光寺様も築地の門前あったお寺様。区画整理の際も、移転を免れ、そのまま

築地に残っていたのです。しかし、時代の抗いの中で、移転せざるを得なくなり、越谷の地に移転して

きたようです。今でも築地市場(場外と呼ばれていたエリア)には、お寺様がポツポツとありますが、

これは当時からあるお寺様なのです。

関東大震災によって、一変した築地ですが、そこから築地本願寺も立て直され、今のような建物となりまし

た。この時、築地本願寺の向きが変わりました。関東大震災が起こる前までは、築地本願寺の向きは、

築地市場に向いていたのです。今の築地本願寺から言えば、正面に築地本願寺を見て、右側90℃回転

させた方向を向いていたのですね。そして、正面に一本道がまっすぐに伸びていて、その左右に40数ヶ寺

が並び立っていたという構図です。40数ヶ寺は、三列に並んでいたようです。

つまり、築地本願寺の正面から伸びる道の左右に、メインのお寺さんが並んでいて、その後ろ側、つまり二

列目に、中くらいのお寺さんが並んでいて、その後ろ側、つまり三列目に小さ目のお寺さんが並んでいた

ようです。そうやってお寺が整然と並んでいたのですね。

法光寺さんは、メインストリート沿いにあったお寺さんなのですね。

だから、歴史や由緒もあるお寺さんなのだろうと思われます。

今でこそ、あまり由緒にこだわる時代でもなくなりましたが、そんな見方をすると興味深い点もでてきます

ね。そういった由緒的なことを知ると、お寺同士の間では、あそこのお寺さんとここのお寺さんは繋がって

るんだなぁ!とわかってくるのですね。

となると、埼玉にある浄土真宗本願寺派の西照寺というのは、もともとは延浄寺から出た血筋のお寺なの

か!とわかってきて、ルーツは築地組かぁ!となって不思議と身近に感じられる部分もでてくるのですね。

ある意味、人間的な感情的な部分だけの話です。

そんな事もあると、不思議と距離感が縮まったり、もちろん性格の相性は当然ありますが、気が許せる関係

となってくるのです。

少しだけ、そんな事もあるのかわかりませんが、同じ埼玉で、距離はありますが、法光寺様にも呼んでいた

だくことがあるのです。お世話になっています。

そうそう、これまた不思議なのですが、たまたまなのですが、西照寺が誕生した大元のお寺様は練馬にある

信行寺様というお寺様なのです。詳細は割愛しますが、西照寺の元々の起源は、信行寺様なのです。

今でこそ、西照寺の前住職夫妻(私の両親)と、私達夫妻も大変お世話になり、ある種、私達一家のボス!

みたいな素晴らしい前住職夫妻がおられるのですが、信行寺様の前坊守様のご出身が、この法光寺様

なのですね。不思議と繋がっているのですね。